接触

 曇った窓から外を見た
 町工場の煙突が雲に紛れて煙を吐いた
 私はそれを見ながら溜息を吐いた
 今度は二人で横浜に行こう
 何かをスケッチしながら彼がそう言った
 横浜よりも鎌倉がいいわ
 私が答えた
 アパートの前の寂れた薬局では万引きが起きていた
 店主が中学生の首根っこをつかみ何か怒鳴っていたがその言葉を私はしっかり聞いていたわけではない

 彼は何を描いていたのだろう

「絵描きの彼氏は元気?」
 久しぶりに会ったあっちゃんが、チューハイをグイッと飲むと、何かのついでのように尋ねた。実際彼女にとっては「ついで」に過ぎないのかもしれなかった。酒の肴にもならない程度の。
 私は「自然消滅」と答えて、初めて「ああ、彼とは終わったんだ」と気がついた。別段寂しさもなければ悔しさもなかった。そこには愛がなかったわけではないと思ったが、愛がなければ付き合っていけないわけでもないし、愛がなかったことにしてもいいか、とぼんやり考えた。
 あっちゃんは「悪いことを聞いてしまったね」と言ったが、口調はちっとも悪びれてなかった。それでよい。彼女は飲み友達として最適だ。
「あっちゃんこそどうなの?反町隆史似の彼は」
 私は数ヶ月前に聞いた「合コンで知り合ったんだけど、超かっこいいの」という彼の話題をふってみた。だがそれは私の話題から転換させたかったから、というわけでもなく、挨拶のようなものだった。高校を卒業してから、女友達と会えば男の話になっていた。別段自慢しているわけでもなく、ただただ、「彼氏」というものが高校時代よりも密接に自分に関係するようになっていた。それだけの話だ。
 あっちゃんは私の背中を叩いて「何でそんなこと聞くの」と笑い、「熱々だよぉ、勿論」と言った。それから「クリスマスなんてねぇ、二人で温泉行っちゃってさ…」と話し始めた。聞いていないわけではないが興味津々で聞くわけでもない。彼女はそれでよいと思っているだろう。あっちゃんは飲み友達としては最適だ。
 反町隆史似の彼氏が本当に反町隆史に似ているのかどうかは定かではない。アバタもエクボとやらである可能性は多いにある。だが、本当に反町隆史に似ているのだとしたら町を歩く時は快感だろう。「あの人反町に似てる」と誰かは指をさし、それは嬉しい視線だろう。

 「絵描き」と町を歩くことは少なかった。私が出歩きたい性格ではないことも影響している。会いたくなったら私は「絵描き」の部屋に行った。そこは町工場が密集している汚い地域だった。家賃は案の定安かった。「絵描き」という自称職業は、そのチープさに彩りを添えた。
 たまには町を歩いた。「絵描き」が絵の具を買いたがったり、私が食事をしたがったりした。「絵描き」はそのときもスケッチブックを手放さなかった。街角で面白いものを見つけると、まず私にそれを教える、などということはしなかった。すぐにスケッチブックを開いてシャツの胸ポケットから鉛筆を取り出すとスケッチを始めた。私はその間、「絵描き」のシャツの裾をつかみながら「絵描き」とは別の方向を見ていた。人の流れを見ていた。人々で溢れているのに、人々を取り巻く社会は恐らく二、三人なのだろうことは推測するに易かった。それらは交わることなく過ぎていく。肥大化する社会では、むしろ人間の社会はミクロ化していくのだと、そんな話を社会学の講師の顔と一緒に思い出した。
 スケッチは大抵三分もかからなかった。「絵描き」はそのときになって初めてスケッチブックを私に見せて「これ、面白いだろ」と言うのだった。それでようやく私は「絵描き」がとらえていたものを見つけ出し、「なるほど、面白い」と思うことが出来たのだが、そのときにはもう「絵描き」は別のことに関心を移しているのだった。

 そんな関係も決して嫌いではなかった。

「それじゃあさ、それじゃあさ・・・まいこたんは今、フリーなんら、独り者なんら」
 そろそろろれつがまわらなくなってきたあっちゃんを見ながら、次のオーダーは止めさせよう、と決めている。彼女は私よりも酔ってくれる。飲み友達としては最適だ。
「そうね。フリー…じゃないかな」
 私は少し考えた。
「違うの?まーこたんはもう新しい男を作ってるの、いやらしい」
 新しい男、というほどでもなければ、いやらしい、と言われるようなことはまだ何もない。彼を愛しているのか、と言われればわからないし、それを考えれば、さっきと同じ、愛していなければ付き合えないわけでもない、という考えに至る。
「新しい彼氏はぁ・・・また絵描きなのぉ?」
 私はウーロン茶を一つ注文した。このへんの大学生だろうアルバイトが少しハスキーな声で「ウーロン一つ」と奥に声をかけた。
 また絵描きなの、と言うほど私は人と付き合っていない。絵描きと付き合うことは彼が初めてだし、恐らくこの先はそんなことはないだろう。大学を卒業すれば経済的なことも考えねばならなくなってくる。だがあっちゃんにいわせれば「個性的なまいこちゃんには個性的な彼氏がぴったり」なのだそうだ。少し笑う。
「普通の学生だよ」

 すぐに会える距離が一番の魅力かもしれない

 三ヶ月前に引っ越した。
 以前住んでいたアパートから学校は遠かった。これから卒論で忙しくなるし、そうすれば学校に近いほうがいいだろうと思った。「絵描き」のアパートからは五駅も離れた。会わなくなった理由はただそれだけだった。
 彼と親しくなった理由も、ただ歩いて五分の距離に彼の部屋が存在するという、それだけの理由だった。

 アパートではなくマンションだ。
 駅から歩いて10分、コンビニと本屋が目の前にあってオートロック。近くのスーパーには主婦よりも学生が溢れた。部屋にはミスチルのCDと流行の小説が置かれ、彼はあまりに普通の大学生だ。

 窓はカーテンがかけられていた。
「どうして?」
 と私は聞いた。
「だって、外から見られるの嫌だろ」
 と彼は答えた。
「開けていい?」
 と私は聞いた。
「いいよ」
 と彼は答えた。それから立ち上がって、私の後ろから手を伸ばし、カーテンを開ける。バッと光が飛び込んで一瞬目がくらむ。外は眩しかった。埃がふわふわと漂っているのが見えた。
「汚いよ」
 と私は言った。
 彼は私の髪の毛をそっと撫でた。
「掃除して」
 と言った。少し甘えた声で。そういった言葉や仕草には親しみを感じても、不思議とときめくことはなかった。愛されることはあっても愛することはないかもしれない、と感じる。

 窓の外では若者がコンビニの前で自転車を止めていた。彼と入れ替わるようにして年配の男性がワンカップのお酒を開けながら出てきた。
 この近辺では珍しい小学生が三人、ランドセルをカタカタ鳴らしながら走ってきた。
 コンビニと本屋の間の電柱の前で立ち止まる、じゃんけんぽん。
 二回くらいあいこが続いて、三回目にパーで負けた小太りの少年にランドセルが渡される。
 ちょっと笑った。
「どうしたの?」
 彼が私を上から覗いた。「ほら、小学生」私が指さしたときには、もう小学生は駆け出していた。
「小学生、どうしたの?」
「じゃんけんで、負けると荷物持たされるっていうの・・・よくやらなかった?」
 懐かしい、と私が言うと、彼は合点のいった表情になった。「僕もよくやった。いつも負けて、荷物持たされるんだ」
 懐かしむ表情を一瞬するので、私は「共有」という言葉を思い浮かべた。「絵描き」とは何一つ共有することがなかった。それでよかった。
「わかるな。あなたってそういう人よね」
「どういう人?」
「お人好し」
 彼の手が私の肩を抱こうとしていた。だが彼はそこに至れずに、髪の毛を撫でた。

 彼の部屋に出入りするようになってから一ヶ月が経った。
 「絵描き」の部屋に初めて入ったとき、「絵描き」は私を抱き寄せてキスをした。高校二年の時に付き合った野球部員ですら、三回目のデートでキスをした。
 彼は私の肩を抱くことすら出来ず、まるで割れ物を触るように慎重に髪を撫でることだけで私への愛情を示す。

 そういう関係も決して嫌いではない。

「きみは面白い」
 と「絵描き」が言った。
「きみの世界は面白いね」
 意味がわからなかった。
「あなたの世界のほうが面白いよ」
 私は「絵描き」の胸に寄りかかって言った。
「絵描き」はどこか見ながら
「きみと僕は最高の相性だ」
 と言った。

 最高の相性も距離には敵わない。
 いちいち電車に乗ってまで出歩くのは好きじゃない。

 年度末が近付いてレポートを4本抱えた。
 テストもいくつかあったが、「持ち込み可」のやる気のない講義だったので私は何一つ対策を取らない。私は比較的標準的な大学生だ。
 二週間、彼の部屋に行っていない。
 このまま付き合ってもいいかな、と思っていたけれど、このまま会わないで付き合わないのもいいかな、と最近思い始めた。テストが終ったら合コンしない?という話を由利と浅江がしていたし、「彼氏」が欲しいなら適当に合コンで見つければいいか、と思った。別段欲しいとも思っていなかったが、何かの付属品のように、たまに欲しくなるときがあるので、持っていて不便はないと思う。
 テレビをつければバレンタイン特集だった。何か彼にあげようかな、とも思ったけれど、いちいち会いに行くのも面倒だったのでやめた。作るのも面倒だったし、彼のためにチョコを選ぶ気持ちも起きなかった。

 課題のうちの二つは難なく片付いた。誤字脱字のチェックだけをすると、文章構成はさほど気にしないでファイルに挟んだ。明日の昼に提出しに行こうと思った。
 三つ目はなかなか進まなかった。
 久しぶりに町に行こうかな、と思った。気分転換は重要だ。

 冬物のセールをやっていた。
 あまりお金も持っていなかったので二着だけ買った。
 駅に入ると「絵描き」に会った。
 「絵描き」は少し驚いた表情をした。私も驚いたので、珍しく二人は「共有」したのだといえる。

 「絵描き」の部屋は相変らず町工場にあった。相変らずそこは汚くて、「絵描き」の貧乏も公害のせいではないか、とありえないことを考えた。
 扉を閉めるとすぐに私を抱き寄せた。「絵描き」は手順も変わらなかった。

 「絵描き」がトイレに立つと、私は上半身を少し起こして、窓から外を覗いた。
 町工場の煙突は相変らずだ。
 今日のような曇りの日には煙と雲が区別つかない。
 薬局には体格のいい作業着の男が入っていった。
 少し考えて
 もしも「絵描き」ではなくあの男に抱かれても私はきっと平気だろう
 と思った。
 愛し合う必要が感じられなかった。
 もっとも、「絵描き」を愛しているのかといえばそれも怪しい。

 だがそれでよい。

 「絵描き」はさすがにトイレと風呂にはスケッチブックを持ち込まない。私を抱いている間も決して開かない。
 枕もとで見つけたスケッチブックをめくると、私が描かれていた。それは恐らく、「絵描き」が私を抱いているときに見た「私」であった。
 少し嫌悪感を覚えてスケッチブックを閉じた。
 「絵描き」は戻ってくるともう一度私の体を舐めまわした。正直私は帰りたかったが、帰ったところでいいレポートが書けるというわけでもないのでそのままにした。抱かれながら「絵描き」のことを考えた。
 そういえば私と「絵描き」はこの時間すら「共有」したことがなかった気がする。私はいつも何か考えながら抱かれていた。「絵描き」も恐らく私を目に焼き付けてスケッチブックに描写することを考えながら私を抱いていたのだろう。そしてその絵は枕もとに置かれ、「絵描き」を慰めていたのだろうか。
 だとすれば「絵描き」は私を本気で愛していたのかもしれない。

 彼の部屋に行かなくなって四週間が過ぎた。彼が私の部屋に来ることも少し期待していたが、肩も抱けない彼にそれは無理だとわかっていた。
 当然のように、「絵描き」の部屋にはあれ以来行っていない。「絵描き」が私の部屋に来ることもなかった。
 長崎との遠距離恋愛をしている美咲が、「どうしても会いたい」と言ってテストが終わった直以後に飛行機に乗った。昨夜「会って良かった、泣き言ばっかり言ってごめんね」とだけメールが入った。それから先はメールが来ないから仲良くやっているのだろう。

 歩いて五分さえ億劫になっている私に、美咲が少し羨ましい。

 どうしてこんなに近い距離に住んでいながら四週間の間、こんな偶然がなかったのか、と思ったが、私が出歩かないせいだと気がついた。
 コンビニで彼と会った。
 彼は一瞬戸惑っていたようだった。私は戸惑うというより少し驚いた。
「久しぶり」
 そう言うと
「久しぶり」
 と彼も言った。ボキャブラリの貧困さが彼の戸惑いだと思った。

「どうしてた?」
 と聞くと
「テスト」
 と答えた。
「私も」
 と言うと、
「どこも同じだね」
 と笑った。

 彼は牛乳と食パンをかごに入れた。
 私はそこにヨーグルトを混ぜた。
「あなたの部屋で食べていい?」
 彼はもう一つヨーグルトを入れた。

 コンビニを出ると、私の気が少し変わった。
「やっぱり、うちに来ない?」
 彼は本当に驚いた表情をした。それから頬を赤くした。
「いいの?」
 私も自分で言ったことに驚いたので「共有」だと思っていた。
「いいよ」

 彼と私は少し距離をおいて歩いた。距離といっても一メートルも離れていなかった。でも密接している距離ではなかった。言ってみれば恋人同士の距離ではなかった。少し彼が出してた緊張感も「他人だ」と感じさせた。
 向こうから小学生が走ってきた。細身の子が最初にジャンプをした。着地の瞬間、ランドセルと体が揺れた。次に来た子は「ソルトレーク、一着!」と言った。オリンピックが彼らの中では最も旬の話題らしかった。
 小太りの子がやってきて、ジャンプした。うまくいかなくて転ぶ。驚いて少年を見ると、少年は恥かしそうにして、笑って、「ジャンプ失敗」と言った。
「頑張ってね」
 と言うと、少年は前を走っていた子どもに体当たりをした。照れていた。
 ふっと横を見ると、彼は微笑んでいた。
「あなた、ああいうタイプだったでしょ」
 私がそう言うと、彼はまた少し赤くなった。照れていた。

「彼氏は?」
 部屋に着いてから、彼は呟いた。
「え?」
「彼氏は、いいの?」
 言っていることがわからなかった。
 彼の表情を読もうとしたけれど彼はうつむいて、表情が見えなかった。
「彼氏って?」
 彼の顔が少し上になって、うろたえているような目が見えた。
「…最近来ないから、彼氏が出来たんだと」
 私は少し笑った。
「いないよ」
 彼の目が明るくなった。
「あ、そうなんだ」
 私も少し明るい気分になった。
 それからヨーグルトを食べた。
「これ、ちょっと甘過ぎじゃない?」
 彼が言った。
「そうなの?」
 私が言った。
「ほら、食べて」
 彼が紙スプーンにヨーグルトを乗せて私の口に運んだ。
「甘い」
「そうでしょ?」
 彼は、失敗したな、という表情でヨーグルトをつついた。
「でも私、こういうのも嫌いじゃないわ」
 彼は「ふぅん」と言った。
「きみのはどんな味?」
 私は紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
「あ、おいしい」
 彼は「ついつい口から出た」という風に言葉を発した。
 私はもう一口、紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
 そしてそのまま彼の首に手を回して、私はたしかキスをしていたように思う。

 愛しているとは思っていないけれど、愛していなければキスをしてはいけないわけでもないし、それに、彼がいとおしいような気がしていた。

彼が窓から外を見た
何が見えるの?と聞くと
電柱
と答えた
それから
カレー屋 駅 スーパー ファミレス 大学 マンション
と続けた
私は彼の隣に並んだ
どうして自分の部屋の窓からの景色を私は見たことがなかったのだろう

空も見える
と彼は言った
見れば電線にさえぎられて切れ切れの空があった
鎌倉に行きたいな
と私は言った
春休みはいつが暇?
と彼が聞いた
横浜でもいい
と私は言った
僕はバイトもないし暇だけど
と彼が言った
そして
一泊二日じゃ足りないよね
と言った
最後の週がいいな
と私は言った

彼の手が髪を撫でて、それから肩に回されていることを感じた。
こういうかんじは決して嫌いじゃない。
愛してはいないかもしれないけれど いとおしい。
そう思った。

トモは死んだ

19日午後三時半頃、A県N市にあるアパートの二階で、山口友江さん21歳が、首をつって自殺しているのが発見されました。

「何あれ」
 ユッコは、まるで喉にささった魚の骨を取り出そうとするみたいに言葉を吐いた。
「何だよ。なんでトモ、自殺してんの?」
 ユッコの吐くコトバに、私は笑いたくもないのに笑顔を作って「まったくよね」と言うしかなかった。
 報道を受けて、私は自然にユッコの家に電話をかけていた。
 小学校卒業以来、実におよそ10年ぶりの連絡。中学では、たまに会ったりした程度だった。それも偶発的に。だから、連絡を取るのは、本当に久しぶりだった。その連絡がこんなものになるのは、予想外だったのか。
 それとも、連絡を取るとしたら、やはりこういう時だけだったのかもしれない。
 ユッコのお母さんが、遠慮がちにお茶を持ってきた。私に軽く会釈して、部屋の入り口にお盆を置いて、そそくさと帰る。顔色が悪いのは、どうやら扉の影になっているせいだけではないようだ。
「お母さんと、最近どうなの?」
「冷戦状態ってとこ?攻撃してるのはこっちだけどね」
 ソビエト連邦はとっくの昔になくなって、冷戦なんて小学校卒業するより前に終結したのに、この母子は冷戦を続けている。
 以前来たときと変わっているのはユッコの髪が金色になっていることと、お母さんの髪の毛が白くなっていることか。
「トモってさ…自殺するような子だった?」
 私は、やっぱり喉元にささった小骨を取り出したくて取り出したくて、コトバを出した。
 ユッコはお盆の上のお茶を窓から捨てた。「あんたは飲んでいいよ」そう言い添えるのも、昔と同じ。
「さぁ…」
 お茶が綺麗になくなると、ユッコはベッドに座る。布団から漂う匂いに、オスの人間がこの部屋を頻繁に訪れていることがわかった。
 ユッコ。
「けど、もう十年でしょ?十年あれば、色々あるっしょ」
 さっき「なんで自殺してんの」と言ったのはユッコなのに。
「あたしらだって、この十年、あの子のことなんか何にも知らないでしょ」
 私は頷いた。でも「でも、あの子、いつも楽しそうにしてたじゃない」
 ユッコはベッドに寝転んだ。
 私は手元のお茶を飲む。美味しい。ユッコのお母さんのお茶は、美味しい。
 寝転んだまま、ユッコは布団を被る。埃が舞う。
「十年あれば、人間変わるよ」

 ユッコとトモと私は、小学校の頃、いわゆる「仲良しグループ」だった。
 小学校の頃の「仲良しグループ」なんて、すぐに入れ替わるものだ。 私たちも例外ではなく、クラスが同じ時だけ仲良く集まり、クラスが離れ離れになれば別の子と固まった。
 ユッコは「大体」と言って金髪をかきあげた。髪が、だいぶ痛んでる。
「小学校、3年と、5年の二回だけでしょ?一緒だったのは」
 耳にのぞくピアスに西日が射した。
 その通りだ。
 ユッコと私、とか、トモと私、という組み合わせは他にもあった。でも、三人一緒だったのは、あの二回だけだった。 だけど、その二回こそが私には特別だったのだ。ユッコにだってそれは同じだったと思う。
 だから、私と今こうして会っているんだ。
だって
「…だってそれが、方法だったじゃない」
 ユッコの時間が止まった。
 私の時間も、多分。
 一階のキッチンから、カチャカチャ、お皿を片付ける音が聞こえてくる。
 ユッコは跳ね起きて、扉を開けて、「うるっせぇ!」と階下に叫んだ。
「うるっせぇんだよ、あんた!!!!出、て、け、よ!!!!!」
 と、洗い物の音は止まる。ゆっこの荒い息が残る。その静寂を破るように扉を乱暴に閉めると鍵をかける。それからドアノブを紐で縛った。何重にも。
 小学校の頃は椅子で扉の前を塞ぐだけだった。
 冷戦が進むにつれて核兵器が進化したみたいに、ユッコとユッコのお母さんも、武器を変えていた。
 私は顔を上げた。
「ユッコだって、本当は覚えてるでしょ?」
 ユッコは何も言わない。
「そう、トモはこの十年で何かあったのよ。何か、辛いことがあったのよ」
 ユッコは何も言わない。
「だから、自殺したのよ」
「だったらそれでいいでしょ」
 ユッコは、口の中に入った髪の毛をなめた。
「そうよ。トモは自殺したくなるような目にあったの。だから死んだの、だから首つったの」
「違う、トモは辛いからって自殺するような子じゃなかった」
「はぁ?!あんた、矛盾してるよ?」
 ユッコは、笑った。金髪をかきあげて。
「矛盾じゃないわよ」
「わかんないんだよ。あんた」
 ユッコは、私の湯のみを手にとった。
 窓から、お茶を捨てる。
「あの人のお茶でおかしくなっちゃったんじゃないの?」
 笑いながら。
 ユッコ。
 あなたも本当は覚えてるのよ。忘れていない。わかってるのよ。あなたも。

、、、、、、、、、、、、、
トモは自殺なんてしていない

 一つの確信を持って、私はユッコの、学習机の一番下の引出しを探った。多分、中学校卒業してからは一度もその目的に使われていない学習机。本来の目的を忘れてしまった、忘れ去られた、忘れるふりの顔をした学習机。
「あんた、何してんの」
 ヒステリックな声を、ユッコが出す。「探してるの」
「何もねぇよ!」
 ユッコは私の腕をつかむ。でも、彼女のやつれた腕が、私をとらえることができるはずがない。
 大学のバレー部で、毎日練習してる私と、彼女じゃ違う。
 彼女の腕はすぐにほどかれた。
 それで、そのまま、ベッドに倒れこむ。
 こうやって今までもオスと。
 引出しの中には、キャップを無くしたピンクのシャープペン、卒業証書、夏休みの日誌、単語帳、頭痛薬、リップ、使われていない消しゴム、生理用品、
「そこじゃないよ」
 ユッコは、ベッドの布団をひっくり返した。埃。咳が出る。
「どれくらい干してないの?」
「…中学卒業してから。センセーとヤった記念に」
「有馬先生?」
 私の問いかけにユッコは答えず、布団の下から包みを出した。有馬先生がユッコ。そんな気はしていたけれど。
「これでしょ?探してるの」
 それは、近所のオモチャ屋さんの赤い紙袋に入れられていた。薄さは1センチあるかないか、縦も横も、10センチもない、紙袋。消しゴムのような小さいものを買ったときに使われるものだった。
 ユッコは紙袋をあける。黄色く変色したセロテープは、はがそうとしなくてもはがれた。はがれたというよりも、くずれた。
 その中から、一枚の便箋が出てきた。
 便箋は綺麗なままで。
「これ」
 それは、小学校三年生の頃、私たちが作った、盟約だった。

 私の母は、あの頃地域に根付き始めていた新興宗教に入った。ある日学校から帰ると、母が涙を流して玄関に正座していた。「ミカちゃん今までごめんなさいね」
 母は時折私に手をあげることがあった。それを止めるのは、同居していた母の兄の仕事だった。
 母が謝っているのは、紛れもなくそのことだった。私はなんだか嬉しくなった。あぁ、私は今まで母から罰を受けてきたけど、ようやく許されたのだと思った。
「今までのはね、お母さんの過ちだったの」
 それからあと、母は私にはわからない単語と言葉で、自分の非を訴えた。世界が抹消だとか、彼岸ではなく此岸だとか、救済は終末だとか、だから今までの母は悪であったのだがカンボウ様によって救われたので、これからは世界を良くするために働くのだと。
 母の兄はそれを否定した。私を一緒に入信させようとする母から私を引き離した。
 母は私を諦めて家を出て、その修行場に行ったきりまだ帰ってこない。私のことなんてもう忘れたかもしれない。

 三年生になって初めての席替えで、席が近くなった私とトモとユッコは、始めは何でもない、よくある小学生のグループだった。でも私が、冗談まじりにぽろりと言った「うちのお母さん馬鹿なの」という言葉にユッコは鋭く反応した。
「うちのお母さんも馬鹿なの」
 トモは同調した。「お母さんってきっと皆馬鹿なんだよ」
「違うよ」私は言った。私は大人の会話から、自分の母が周りとは違うと知っていた。
「普通のお母さんはやさしいんだよ。でもうちのお母さんは馬鹿なんだよ」
 本気で言っていた。
 ユッコもトモも、本気の顔で、頬を赤くして興奮した面持ちで、うん、と鼻息荒く頷いていた。

 ユッコが布団を戻した。また埃。
「センセー、すっげ、やさしかった。あたしのお母さんっておかしいの、ってゆうと、でも由子はおかしくないだろ。って言って、胸揉んでくれた。こうやって。由子のおっぱいは綺麗だなぁって言って」
 大事そうに、自分で胸を揉んだ。
 でもどうせ有馬先生はユッコを一回抱いただけなんだ。あんな卑怯な生き物は。
 ユッコは私がいることを忘れているかのように体の感覚にしがみつき始めた。
 ユッコのお母さんは、ユッコに触ったことがないという。
「だからあたし、『愛されない子』なんだって」と、ユッコは大人の言葉を借りて言っていた。「あたしたちって救われない子なのかな」
 宗教にはまった母の所為で「救い」という単語がアタマにインプットされていた私は、呟いた。
 私たちは、お互いの傷口を慰めあうように語らっていた。トモはーー何も言わずに聞いていた。
「ユッコ」
 ユッコはまだ体をなぶっていた。多分有馬先生を反芻していた。今までもこうして?ユッコ。
「ユッコ、トモは、何だったんだろう」
 うぅん、と溜息ともつかない声をユッコは漏らした。私は、戸惑って、でも、ユッコならこの光景はさほど不思議でもない。と、納得もしていた。
「トモは、なんで、私たちのそばにいたんだろう」
 私とユッコには、母親に対する憎悪という共通点があった。でもトモは、何も語らなかった。ただ私たちの言うことを聞き、私たちが許せないと言うものに同調して許せないと言っていた。
 ユッコは、まだ手を止めない。でも、そこに有馬先生の影はなかった。機械的な、肩こりをいたわるような動作にも見えた。
「ミカは、いつやったの」
「ユッコ。私そんなこと聞いてない」
「あたしがミカに聞いてる」
 私は答えなかった。
 ユッコの、手が止まった。
「……そんなこと考えたこともなかった」

 救われない子を救ってくれる神様がいればいいのよ。提案したのは私だった。母の影響は少なからずあった。ユッコもトモも賛同した。
 私たちは救われたがっていた。
 いればいいのよ。は、いつか、絶対いるんだわ。に変わっていた。

「風が吹くと花が咲くんだっけ」
 ユッコは思い出していた。盟約には書いていない、世界を。
「そう。夜になるとしおれるの」
「でもそれだと花が可哀相だから、また朝になると風が吹いて、花が咲くんだ」
 ユッコは乾いた声で笑った。「馬鹿だな、あたしら」
 便箋には盟約と、絵がかかれていた。絵を描いたのは、一番上手だったトモ。トモはあんまり何も言わなかったのに、上手に神様の絵を描いた。
 神様は、ネズミのような恰好をしていた。ネズミは小さくて嫌われ者だけど、知恵が働いて賢いから。私たちのような「救われない子」を救うには、ネズミが良かった。
 本当は私たちは、その「神様」の住む世界の住人なのだった。色々事情があって、この世に来たのだ。その事情を考える時間が楽しかった。私は、その事情をあるときは「向こうでいたずらをしてしまったから来たのだ」と言い、あるときは「お母さんを殺すために来たのだ」と言い、あるときは「こっちで遊びたくなったから来たのだ」と言っていた。ユッコは「お母さんを殺すためにここに来た」と、ずっと言っていた。その目的はいまだ果たされていないようだが。トモも、私と同じように理由をコロコロ変えた。
 色々な理由を作って、この世で受難せねばならないことを自分に言い聞かせた。そして「いつか、神様のいる世界に行こうね」と誓い合っていた。
 小学校五年生で、再び同じクラスになったとき。ユッコが言い出した。
「覚えてる?」
 忘れないようにしよう、と私が言った。
 大人になれば、こどもの頃の気持ちは忘れてしまう—そんな文句をどこかで聞いたことがあった。
 トモは頷いた。
 少女漫画雑誌の付録の便箋を私が持ってきて、ユッコが色ペンで書いた。トモが読み上げた。
 この部屋で。

「私たちは、救われない子どもです。
とてもかわいそうな子どもです。
だけどそれは本当ではなくて、
本当は☆●※◇という世界から来た、
選ばれし民なのです!

私たちは、今は修行ですが、いつか
☆●※◇に戻ります。
それまでに、私たちはこの不こうを
のりこえているでしょう。
そして私たちは、神さまになるのです。

神さま、まっていてね

トモ ユッコ ミカ」

私もユッコも、大満足だった。
自分は実は不幸な娘ではなく、選ばれし民なのだ。と、思うこと。それだけで。

「向こうに行ったっての?」
 疑わしいものを見るように、ユッコは私に言った。
「ユッコだって、向こうに行くための儀式、覚えてるでしょ…」
 ユッコがすくっと立ち上がり、湯のみを、ガチャン、ガチャンと、窓から捨てた。
 最後にお盆を捨てた。
 その音に耐えられなくなったのか、ユッコのお母さんの「ユウちゃん?」と不安げな声が聞こえた。それと殆ど同じくらいでユッコは「黙れっ、て、言ってんだろぉー!」とがなった。「殺すぞ!」とも。

 また静寂が、来た。

「ったく、あの女は…」

 ユッコ。あなたはお母さんを殺さない。
 私には確信があった。
 私もお母さんを殺さない。
 だって、私もユッコも、何度も空想でお母さんを殺しているから。

「向こう」には、簡単には帰ることが出来なかった。だってこの世界での受難は私たちに課せられた使命だったから!

「でも、一つだけ、向こうに行く方法があったよね?ユッコ」
 提案者はあなたよ。
「一番許せない人を、殺すこと」

 同時に声に出していた。

「だったら、余計おかしいでしょ。トモは、自殺したんだよ。人殺ししたわけじゃない」
 その通りだ。
「誰か殺したことを罪に感じてとか?あるわけないでしょ」
 その通りだ。でも「わかるでしょう?ユッコだって」
 私もユッコも母親を憎んでいた。殺したいと思っていた。でも
「本当に憎いのは自分よね?」

 母の兄は言った。私たちのあどけない遊びを悟って。
「ミカちゃん、きみのお母さんはたしかに酷い奴だが、殺したいと思ってはいけない」
 道徳の時間、お父さんお母さんは大切にしましょう、いつもお世話になっていますねありがとうございますといいましょうと教えられた。遠足です、動物園です、お猿の親子がおんぶしてますね、みなさんもああいうふうに仲良しですね、え?仲良しではない?そんなはずはないでしょう。あるとすればそれはあなたが毎日いい子にしていないからですよ。あっちにいるのはカンガルーです、おなかに子供を抱いて可愛がっていますね、え?カンガルーがうらやましい?そんなことはありません、あなたのお母さんもお父さんもみんなあなたを愛していますよ、愛していないとすればそれはあなたがいい子にしていないからですよ。いい子にしていないからですよ。

 ユッコは、胸をまた揉んだ。有馬先生を反芻した。
「センセー…あたしのおっぱいが綺麗だって言った…」
 この子の神様はネズミのように小汚い心を持ったオスだった。
 40過ぎた有馬にとって、15の少女は魅力的だったろう。たった一度抱けるだけで彼は満足だったろう。それ以上を求める勇気はなかったろう。でもユッコは。有馬先生を求めていた。彼女を「綺麗だ」と認めた。彼女のお母さんを「おかしい」と言った有馬先生を。
 あのネズミは、きっとその場の流れだけでそれを言ったのだろうけど。

 私たちがいつも恨んでいたのは、母を愛せない自分自身だった。
 こんな私がいなくなって、別の私になればいいと思っていた。
 そうすればきっと母に愛されて。

「19日、自殺しているのが発見された山口友江さんは、」
 六時のニュースが続報を伝えた。
 たわいない内容だった。職場で彼女は苛めにあっていた とか 両親は別居中 とか そんなたわいのない。
「トモ…楽しそうだったよね」
 ユッコが、有馬先生を反芻しながら呟いた。
 私たちが、「向こうの世界」を考えている時。何も言わなかったけれど、トモは、楽しそうだった。
 楽しそうに、「向こう」の絵を描いた。
 トモは「向こう」に行きたがっていた。
 辛かったから「向こう」に行ったのか?
 …違う気がする。あくまでも「気がする」だけだけど。
「トモ…死んだね」
 ポツリと、ユッコが、言った。

 ドアノブに巻いた紐をほどきながら「ミカ今何やってんの?」と今更ながら聞いた。
 聞かれたくなかったような気もしたけど、どうでもいい気もした。
「不倫」
 ユッコは一瞬時間を止め、
「お母さんのお兄さん?」
と、「確認」した。
「嘘。大学生」
 私の神様も、小汚い動物だ。
 玄関のそばにある和室の襖の隙間から、ユッコのお母さんが見えた。
 息を殺していた。
 ユッコが「黙れ」と言えば黙る。ユッコが「出て行け」と言えば出て行く。
 だけど、ユッコは彼女を殺さない。
 そしてユッコは死なない。
 ギリギリの状態で冷戦を保つ。
 きっといつまでも。
 新しい歴史が新しい冷戦を始めても。
 私もきっと、死なない。
 母を殺さない。
 殺そうにも母はどこにいるのかわからない。ひょっとして、どこかで死んでいるのかもしれない。何とかの教理に従って何かやらかして。
 もしもそうだとしたら、私は少し悔しいのかもしれない。

 トモは、もう「向こう」で神様になっただろうか。

水道橋

 御茶ノ水を過ぎて、私は立ったまま少し外を眺めて、遷ろう景色を望んだ。
 緑に輝いた御茶ノ水から、やがて大きな道路、たくさんの車、むせ返るような人の群れ、高い建造物。
 そして、川。そこにかかる橋。
 
 
 「すいどうばし」
 
 
 ホームにかかげられた駅名を小さく口に出した。
 私が降り立った駅。
 
 
 8月。改札を出れば陽射し。くらりと一瞬眩暈。熱気。日焼け止めクリームをバッグから取り出して、もう一度露出した腕と首に塗りたくる。黒とレースの晴雨兼用折り畳み傘。パッと咲かせて差すと、少しばかり和らぐ太陽。
 
 
  この駅に降り立つのは何年ぶり?

 少しきついサンダルで歩き出す。学生でごった返す道。片隅に置かれた郷愁と、進みたい未来への思いで歩き続ける。
 コツコツコツ、サンダルの音が耳に響く。片隅の郷愁を打ち消さんとするように。 
 私はM大学の文学系大学院事務室へ向かう。

 「す、い、ど、う、ば、し」
 
 滲む汗にも構わずに手をつないだまま私は駅名を読み上げた。同じように汗ばんだ手で、私の手を握り返したサトルの骨ばったゴツゴツとした指。サトルは自分の帽子を私の黒髪の上に乗せると、きゅっと強く引っ張って改札口へ向かった。
 
  切符ある?
  あるよぉ
  行くよ
  ねぇどっちに行くの
  どっちがいい?
 
 改札を抜けて、一度離れた掌をもう一度つなぎ、サトルは私を引っ張った。
 
  暑いなあ
  汗くさいよ
 
 そう言いながら私はサトルの汗の臭いをかいだ。ランニングシャツからはみ出したサトルの鍛えられた腕は汗でべたついていたけれど、私は肩を寄せた。じんわりサトルの汗と私の汗が交わった。なんだかそれが嬉しくて、わけもわからず「どっち?どっち?」とはしゃいで歩いた。
 
 
 
 「失礼します」
 事務室に入ると、すぐに若い女性職員がやってきた。
 「はい」
 「文学研究科の大学院入試要綱と過去の問題集を頂きたいのですが」
 「2つあわせまして800円になります」
 「はい」
 スムーズに進む事柄。既に何部も用意されている要綱と問題集を取り出すのと私が財布から800円を取り出すのはほとんど同じスピード。冷房の効いた事務室はさきほどまでの汗を冷やす。ねっとりとした日焼け止めクリームが鬱陶しく感じられる。どの教室も冷房は効いているのだろうか。私大だからきっと効いてるんだろうな。そんなことを考えながら「ありがとうございました」と頭を下げて「失礼しました」と事務室を出る。
 エレベーターで1Fまで降りれば、あの頃のサトルのような、青臭さを秘めた若者が何人も学部の事務室に寄っている。入試の過去問を買いに来る高校生たち。
 
 
 あの中の何人が オチテ
 何人がウカル のだろう
 
 
 高く近代的な校舎を見上げて、私はもう一度駅へと向かう。長居の必要はこれっぽっちもなかった。
 今更観光気分は出ない。一刻も早く過去問に目を通した方が得策。
 
 
 
 サトルはオチタ。
 2年受けて、2年オチタ。
 2年目にはひたすら苛立ってた。
 
 そんなにイライラしてたら勉強はかどらないでしょう
 
 言いたい言葉を飲み込んで、私は隣で自分の受験勉強を進めた。
 いつのまにか煙草を吸い始めたサトルは、図書館でよく「一服」と言って席を立ち、喫煙所に行って30分は帰ってこなかった。ひきとめようとする私に、サトルは「コジンノジユウ」という言葉を投げた。
 
 サトルと同じ大学を受けるわけでもなかったけれど近い大学を受けようと思ってた。
 けれど、図書館の隣の席で勉強すればするほど、サトルと私は遠のいていった。
 
 
 
 3月、私が入学金を郵便局で為替に変えている頃。
 サトルは母校の窓を割っていた。
 卒業式に流した涙は母校のためではなく、もう出会うこともないだろうサトルのためだった。
 
 
 
 駅に入る、再び熱気、電車を待つ、じんわりにじみ出てくる汗、ハンカチを取り出す。
 脇に抱えたバッグの中の入試要綱と問題集を気にしながら、私は空を見上げてつぶやいた。
 
 
 「す い ど う ば し」
 
 
 あの頃サトルが目指した大学の大学院を狙っていることに、学術的興味以外の理由は何ひとつなかった。
 サトルがどうなったのか、私はもう知らない。
 サトルもきっと、私の行方を知らない。
 
 
 フリマで買った300円の帽子を深くかぶって、ハンカチで額の汗を拭いて、バッグの中から取り出したメイク道具で簡単に化粧直し。
 バッグの中の携帯電話が振動して、着信を告げていた。
 発信者名を見る、「ヒロシ」。
 通話ボタンを押す、「終わった?」「うん、終わった」「迎え行こうか?」「もう駅だし」「なら部屋で待ってるし」「冷房つけといて」「電気代高っ」「扇風機でいいよ」「冷房ですね、カシコマッタ」「あ、電車来る」「なら切るし」「うん」「冷房ですね」「ヨロシクドウゾ」、終話ボタン。ホームの白線内側に立つ。電車が止まる。「水道橋」とアナウンス。
 電車の中はひんやり冷えて、私はバッグからカーディガンを取り出し羽織る。
 電車が動き始める。
 
 
 ホームの「水道橋」の文字はやがて、電車の速度に消されて見えなくなった。

寒椿

かみさまなんていなひのだとゆうたのは、あなたでしたね。
 
 
 今年もつばきが寒々と咲いております。
 雪をかむつて、しらがのおばばのやふになつております。
 しらがのばばの、あかいおべべ。
 かみさまなんていなひのだとゆうたのは、あなたでしたね。
 あら、ずいぶん遠ひ頃のことをおもひおこしてしまいました。
 
 
 かんつばきが咲くのは、春のためだとゆうたのはおばばでしたね。
 花は、散るがために咲くのだとゆうてましたね。
 散る花は、あらたしきいのちのうまれをよろこぶのだと、ゆうてましたね。
 そのために、かんつばきは、はらり、はらり、すこしずつ散るのだと。
 そうゆいながらあかいおべべのおばばが散ったのはいつであったことでせう。
 
 
 しらがのばばは、あかいべべ着て、白い白い、雪の底へと散ってゆきましたね。
 谷底をまつさらにそめる白い雪の上に、散ってゆくおばばのあかいべべが、どさりと、春のつばきのやふにおちましたね。
 春のつばきは、首をぼとりと落とします。
 
 ばばをほおったあなたのほほもあかく染まり、だいぶん白い雪げしきに映えていましたよ。
 ばばをほおったあなたのめめもあかくなり、あなたはゆうたのでしたね。
 
 
 かみさまなんていなひのだと。
 
 
 ぼたり、ぼたり、雪の上に咲いたあかいあかい血をわたしはわすれていませんよ。
 それは少しずつ散る冬のつばきのやふでした。
 かみさまなんていなひとゆうたあなたは、ばばをほおった次の日に、谷底に身を捨てました。
 あなたのからだはやぶ枝にささり、ぼとり、ぼとり、谷底にいくつものあかい花びらをさかせましたね。
 
 
 今年もつばきは寒々と咲いております。
 わたしのところでは、おとこがおらずとも、なんとかなっておりますよ。
 あの春うまれたややが今ではあいらしい娘になりました。
 ややは村のみんなからこのまれました。
 そして、わたしの頭はしらがにかわりました。
 
 
 こよい、娘がわたしにあかいべべを着せてくれます。
 娘のむこどのが、わたしをせおってくれるのです。
 娘のおなかには春ごろうまれるややがおります。
 むこどのにはおねがいしておきませう。
 
 
 かみさまはいますよ。
 かみさまはいて、そうしてあらたしきいのちをさずけるのですよ。
 だから、むこどのは、あなたのやふに身を投げないやふに。
 むこどのは、わたしを谷底に散らすことで、あらたしきいのちをはぐくむのですから。
 
 
 散る花は、あらたしきいのちのうまれをよろこぶのですから。
 
 
 こよい、わたしはあなたのもとへゆきますね。

伸吾の春

伸吾の町は、梅が咲く。
それで有名、というわけではないけれど、美しいものだ。
伸吾はこの季節になると毎朝、散歩が楽しみになる。
雨の日でも、散歩に出るのを厭わない。
春は、雨がしとしとと降るのも風流だ。
おじいさんに連れられて、伸吾はてくてく歩く。
おじいさんの足取りは年々ゆっくりになっていくようだ。
もちろん伸吾も年の取り方では負けてはいないから、伸吾も年々足が弱っていく。
ご近所のおばちゃんが言う。
「伸吾ちゃんも年取ったわね。もう、何年?」
おじいさんが言う。
「そうさな、もう、10年近いかな。こいつもそろそろダメだろう」
おばちゃんは言う。
「あらあら・・・伸吾ちゃんいなくなったら、吉本さん寂しいわね」
おじいさんは何も言わずに会釈する。
それはおじいさんが年々感じる不安材料の一つだからである。

おじいさんが伸吾を拾ったのは、10年前だった。まだ生まれて数ヶ月だった伸吾を拾ったのは、こんな理由からだった。
「犬の寿命は10年くらいだという。俺もどうせあと10年くらいのものだろう。だったら死の床瀬まで、こいつと二人、暮らしてみるのも良いだろう」
だけどおじいさんは、10年前に思っていたよりも丈夫なお年寄りだった。そして伸吾は、きちんときちんと、年を取っていく。
俺もまだまだ死ねないよ。
クゥン。と、伸吾はおじいさんに言ってみる。おじいさんは伸吾の頭を撫でる。
しわくちゃの、ざらざらした手。
伸吾はその手をぺろり、と舐めた。

今日は雨。
おじいさんはいつも通り早起きをして、雨戸を開けて、呟いた。
「雨か」
伸吾は外からおじいさんにしっぽを振った。
「うん、おはよう、伸吾」
おじいさんは伸吾に手を振った。
伸吾は、おじいさんの手が伸吾のしっぽと似ていることを知っていた。
それはおじいさんが気持ちを伝える方法だった。
おじいさんは、一枚セーターを着た。
年寄りには雨はこたえる、と呟いた。
それからいつも通り、おばあさんに線香を焚く。
伸吾の小屋にも、その薫りが届いた。
庭の梅のにおいと、交わる。
雨はしとしとと降る。
伸吾は、ここ数年、足の裏が雨に濡れることも気にしなくなった。
はじめて雨の日に散歩に出た時は、足の裏が濡れるのに違和感を感じて、跳ねてみたり、早歩きをしてみたり、したものだが。
おじいさんは、大きな黒いこうもり傘をさして歩く。
伸吾は虎縞柄の散歩紐に引っ張られて、少しだけ、傘の恩恵を受けて歩く。
おじいさんは時々立ち止まる。
そして伸吾が傘の中に入ることを確認する。
伸吾が傘の中に入ると、また歩き出す。

アスファルトの道がしばらくは続く。
濡れたアスファルトは、いつもに増して冷やっこい。
小さな広場。
晴れた日曜日の朝ならば、近所の子供たちが遊んでいる。
そしておとなしい伸吾は、子供たちに触られる。
伸吾は子供が嫌いではない。
けれど、耳を引っ張る子やしっぽをぎゅっとつかむ子がいると、ちょっと嫌な気分になる。
おじいさんがすぐに叱ってくれるけれど。
でも、今日は雨降り。
広場もしっとり落ち着いている。
大きな池。
池の周りの遊歩道はアスファルトに舗装されている。
鯉が一瞬、姿を見せる。
そして水面に波紋を作る。
鯉の波紋は、雨がつくる波紋と同じになる。
雨は、川のせせらぎのような微かな音をさせて、池に降る。
池は、曇った空と同じ色。
おじいさんは、毎日いる釣り人に声をかける。
「おはようございます」
釣り人はおじいさんに言う。「おはようございます」
そして伸吾に言う。「伸吾くん、おはよう」
「雨の日も、大変ですね」
おじいさんは、雨の日の度、彼に言う。少し呆れている。
その度に、釣り人は、少しきまりの悪そうな顔をして言う。
「やめたいんですけどね」
「伸吾くん、お前が散歩に行くみたいに、俺は釣りをやめられないんだよ」
彼はおじいさんではなく伸吾に言うのであった。
遊歩道をちょっとはずれると、広い公園だ。
アスファルトがなくなって、梅がいっぱい咲いている。
雨を含んだ土は柔らかくなっている。
歩けばちゅっちゅっと音が鳴り、ほんの少し、体は土に食い込む。
伸吾はそれが大好きだ。
梅の木の立ち乱れる中に、ひとつ、屋根のある小さな休憩所がある。
木製の、ベンチと、「テーブル」というにはお粗末すぎる「テーブル」。
どこぞの悪たれがした落書き。
おじいさんはその内容の卑劣さや猥褻さに顔をしかめてから、見なかったふりをする。
そして一服。
タバコを吸う。
ふー・・・
煙が雨に湿っていく。
伸吾は、濡れた体を一生懸命舐めながら、煙をひょいと見た。
雲みたいだ。
空に上って、梅の薫りと一瞬交わって雨に消える煙は、雲のようだった。

「こんな日だったか」
おじいさんが、誰に言うでもなく呟いた。
「春恵がうちに来たのは」
伸吾は「春恵」を知らない。
それは、時々おじいさんやおじいさんの友達との間に出てくる名前である。
「春恵」は、伸吾が家に来る前に亡くなったという、おばあさんであった。
「雨が降っていて・・・梅が咲いていて・・・俺はタバコを吸っていた」
伸吾は、おじいさんの足下で体を丸めた。
おじいさんは、伸吾を、ちょいっと見た。
それから、今度は伸吾に話した。
「見合いの席だってのに、いつまでたっても相手が来ない。うちの親父はかんかんに怒るし、俺は「逃げられた」と思って落ち込んでいたよ。俺は、お世辞にも色男とは言えない器量だったからな。
外を見ると、梅が雨に濡れていて。
俺は思ったよ。
梅は俺の代わりに泣いているんだな、と。
女々しいと言われようが、俺はそんなことを考えた。
タバコを吸って、気を紛らわそうとした。
ところが、二時間たって春恵は現れた」
ごめんなさい、雨で道がぬかるんでいて。
「そう言う春恵の頭に、梅の花が落ちていた。
俺は、遅刻された腹いせも手伝って、意地悪くこう言った」
頭に、梅の花、ついていますよ。
「俺がそう言うと、春恵は頭を触って、梅をとって「あら、本当」と笑った」
あたし、春恵なんて名前ですもの。春がついてきちゃったんだわ。
「ガラス玉を転がすような笑い声だった。
俺は、それを聞いてもう、おかしくなってしまった」
では、僕にも春をくださいな。

おじいさんは、小さく笑った。
頬が桜色に染まっている。
伸吾はしっぽを振った。
おじいさんは、おばあさんが本当に好きだったんだね。
タバコが小さくなって、おじいさんは火を消した。
伸吾は鼻をひくつかせる。
おじいさんの薫りはタバコのにおい。そして次に、梅の薫りと、雨の薫り。
おじいさんには今も春恵さんがいる。

おじいさんは立ち上がった。
「さあ、帰ろう」
伸吾も立ち上がった。
おじいさんと伸吾は、来たときよりもゆっくり、歩く。
こうして、ゆっくり年を取っていく。
小さな休憩所を出ると、雨がやみ始めていた。
梅の花は今が満開。
つぼみをつけた桜の木が、本格的な春を迎えようと準備している。


*初めて「ホームページ」を作った時に載せた作品です。色々悩んでいた頃のもので、とても思い出深いです(2010.7.29)

朽ちる私

 若返りの薬をもらった。
 母に半分あげたら、最初の半月は毎日1錠ずつ飲んでいたけれど、元来三日坊主なので途中で飲まなくなり、やがて消費期限が切れた。
けれど目元のシワは消えていた。
 私に薬をくれた隣のおばさんはいつの間にかお姉さんになってしまい、若い男と恋に落ち、出ていってしまった。
 なぜ旦那さんと分け合わなかったのだろう。
 私は今23なので、毎日飲めばいずれ赤ん坊になるんだろう。しかしそんなに若返るつもりもないので一週間だけ飲んでみた。あまり効果は実感できなかったが、なんとなく冒険心が蘇ってきた。
 冒険心にまかせて一人旅に出た。18切符の気ままな旅だ。冒険心のままに行動したので、休暇届を出し忘れた。私はクビになるだろう。
まずは海に行った。地元の男と知り合い岩陰で体を重ねた。男は自分を留蔵と名乗った。きっと若返りの薬を何ヶ月か飲んだのだ。
 次は町に行った。アダルトビデオにスカウトされた。女子高生の恰好で出演しろという。私はそこで三日働き、大金をもらった。地道な会社勤めは馬鹿らしいものだと感じた。
 次に田舎に行った。たんぼばかりがあった。たんぼで働いているのは皆若者だった。田舎の人の親切に甘え、三軒の家にそれぞれ三日ほど泊めてもらった。ど の家にも若返りの薬がケースで置いてあった。そしてどの家にも赤ん坊がいた。日本の農家はたくましい、と思った。
田舎を出てから山に行った。奥に進むにつれて人間が減った。疲れたので途中の山小屋で休んだ。そこで出会った青年と私は恋をした。片時も離れたくないと思った。
 三年ほど彼と暮らした。三年のうちに子供が二人出来た。そしてこのまま生計を立てていけるかと悩み、彼は私に、ここで小さなペンションを始めようと提案した。私もそれは素敵だと思い、賛成した。
 ところが、ペンションを経営するための話し合いをするうち、許可がいるんじゃないかしら、とか、電気やガスの工事を頼まなくちゃ、とか、その資金はどうするの、と、私と彼は幾度も喧嘩を繰り返した。二人の子供はオドオドしていた。
 結局、ペンションは現実的でないという結論に落ち着き、私たちは町に下った。
 若返りの薬を使用したため再就職する例は珍しいものでもないらしく、私も彼も就職をした。子供は保育園に通った。  
 数年経ったある日、彼が若返りの薬を買ってきた。一緒に飲まないか、と言われたが、若返ったら子供の世話を忘れちゃうわよ、と、おばさんの笑い方で笑い、でもちょびっとだけもらうわ、と言って三日間飲んだ。肩凝りが少し良くなった気がした。
 彼は日に日に若返り、やがて上の子供が中学校に入る頃、家を出て行った。お前が母親のように思える、愛せない、そう言い残して。
 やがて子供たちも家を出て行った。若返りの薬を飲んだわけではなく、そういう年齢になったから出て行ったのだ。
 私はたまに若返りの薬を隣の奥さんに分けてもらって肩凝りや腰痛を治していたが、年を取るとそれすら面倒になった。
 山で過ごした年月を懐かしいと思った。
 母の墓参りを済ませ、子供たちに手紙を託して山に登った。かつて軽々と歩いた道は険しく、私は何度も休んだ。
 いつのまにか朽ち果てていた山小屋に辿り着いたのは家を出て二日経ってのことだった。老いた体に野宿は厳しかった。
 かつて彼と愛し合ったベッドは既に腐っていた。けれど、この老いたからだを休ませるには充分だった。
 私は腐り切ったベッドに横たわり、静かに目を閉じた。二日かけての山登りに疲れた体はもう動かなかった。ふと、海の留蔵を思い出した。上の子供はもしか して留蔵の子供だったかもしれないなあ、と思うと少し可笑しかった。朽ちた山小屋にはあちこちから冷たい風が吹き込んだ。やがて寒さも空腹も忘れた頃、私 は山小屋の中で朽ち果てた。
 腐ったベッドを腐った私の重みが壊した。
 私とベッドはいつしかひとつになり、キノコや雑草が生えて来た。
 風雨の中で山小屋も崩れ、私とベッドを押し潰した。
 その隙間からいろんな植物が背を伸ばした。
 朽ちた私はやがて、青々とした山の部品になった。

K a i

 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
  空はすべてをつないでる。
       **********
 (壊れる)
 衝動が胸を打つ。圧力をもって為される、回転。うねり。
 (どこから)
 飛行機が青空を走る。白いひとつの尾をひきずりながら。ぐらり、天地がゆらぐ。一周しているようだ。温度差が生み出す圧力、ぶつかりあい、乱れる秩序。生態系は狂う?
 (見えなくなる)
 いや聞こえなくなる。におわなくなる。すべて五感がうばわれゆく。ただ、この流れは変わらず打ち続ける。大小あれど、変わらない、外圧に負けずここにいる。だいぶん近くにあるよう。まるで臓器のよう。そして――――
 「……!」
 ああ、
 「…マ!」
 叫びのように、つんざくものは、
 「ママ!」
 まるで、我が子――――
       **********
 「割れた」
 机に散ったグラスの破片を見つめてサツキが言った。そしてか細い指で、拾い始める。破片はキラキラ、部屋の照明を受けて壁に光を返す。ちっぽけで狭いこの部屋に。太陽と、太陽を中心に公転する惑星たちがあるようだ。
 「いたい」
 サツキは言って、右の人差し指を見た。こぼれた褐色のコーヒーの中にポタリと血が落ちる。ガラスで切ったのか。サツキはそのまま破片を拾い続ける。指からしたたる赤い血は降り始めの雨のごとく。褐色ににじむ赤色はまるであの日の景色のごとく。
 
 大体10年くらい前になる。地球は大変動を起こした。プレートは滑り込み、核で蠢くマグマが地表に流出した。警報は前々から出されており、主に先進国政 府による「救済政府」も準備されていた。僕は変動の起きる前日にシェルターに入った。シェルターには毎日、人工衛星がとらえた地球の大変動の映像が送られ てきた。その景色、この星の終末を告げるようだった。各地で起きる火山噴火が空を赤錆にした。赤錆の空は赤い雨を降らせた。誰かが言った「まるでノアの箱 舟だ」。
 シェルターにも地球の振動は伝わってきた。やがて水が浸透し始めた。その日以来、誰もが長靴を履くようになった。
 地表に出られるようになるまでに、3年がかかった。それまでに多くの人がシェルターの中で気狂いになって死んだ。
 地表に出て久しぶりに見た世界は、赤茶にぬかるんだ大地。崩れた高層建造物。行き場を失くした魚たちが最後のエラ呼吸で息を引き取る。空は赤から、そし てピンクへ。3年前と同じ星とは思えなかった。しかし「救済政府」がかねてから準備していた装置や備蓄によって世界は復興に乗り出した。復興は、水浸しの 地面を歩くのに適した靴を生き残った人々に配布することと、食料を配給することから始まった。続けて行方不明者の捜索が行われた。
 人間とは、実にタフな生き物だ。ひとときその価値を失っていた貨幣はたちまち息を吹き返し、当初は申請許可が必要であった就労及び商売は取締りが追いつかないほど蔓延。当時14歳であった僕もアルバイトを始めた。
 お金があれば、配給される分よりずっと上質でたくさんの食料が手に入った。
 同時に僕は受験勉強を始め、救済政府の指示によって各国に作られた国営学校へ入学した。国営学校の大学部まで卒業すれば、復興の暁に官職に就けることが 約束されていた。何十という倍率の中合格した僕は、その時になってようやく捜索願を出した。母の捜索願だ。その、捜索願届を出すときに、サツキと出会っ た。
 サツキは、救済政府による初期行方不明者捜索活動で発見された身元のわからない少女だった。僕は彼女を――
 「妹です」
 僕は彼女を引き取った。戸籍情報は紛失していた。誰でも「家族です」と言えば家族として認定された。当然のようにそれを利用した人身売買もあったが、僕がサツキをひきとったのはそういう目的ではなかった。
 似ていたのだ。あの日の母に。
 「たしかに、兄です」
 サツキは僕の嘘を受入れた。そして書類上、僕らは兄妹となった。
 国営学校が用意した寮で僕とサツキは暮らし始めた。僕らは兄妹だから、恋愛感情を抱いたりすることはなかった。そして、ない。現在もなお。
 サツキは自分のことをほとんど語らない。僕もまた。
 母の捜索状況は定期的にメールで届けられた。
 <発見されませんでした>
 そして僕はいつも続けて捜索願届を出した。
 本当は、わかっているけども。
       **********
 浄水器を通した水で指を洗い、軽くガーゼをあてた。ガーゼはすぐ赤く染まる。
 「まだ痛い?」
 「いえ」
 サツキは簡単に答え、箒と塵取で破片を集め、引き出しに入れた。彼女に与えられた机には、そんなガラクタばかりが入っていた。ガラスの破片。石。貝殻。
 「回収に来ました」
 毎日やって来るゴミ回収を生業としている男は、僕からビニール袋を受け取り「お代を」と左手を差し出す。サツキが段ボールを渡す。段ボールの中にはサツキが描いた絵画らが入っている。妹は、絵で生計を立てていた。
 彼女は絵を。僕は勉強を。
 狭い部屋で、黙々と。会話もほとんどなしに生活している。生きている。
 窓からこぼれる光はやたらピンクだ。ここ数ヶ月でその色合いはますます鮮やかになったようだ。携帯電話に配信されるニュースではこの現象について各界の学者らが各々意見を提出し、解決しようとしている。
 ばかげている。
 地球も、太陽も人間も。X=、で表現できるものではないのに。そう考えつつ、X=12という解を僕は問題集に筆記する。
 あまりにばかげた世の中なのに。だから。
 ばかげた解が、崩れた貝と、等しく価値をもっている。
       **********
 大学部に合格した日、僕は雨漏りや浸水のない高層にある寮へと移ることになった。あの日から何年も経ち、地上で新しい生活を始めてから幾年も経ったというのに、未だにこの惑星が起こした現象の謎は解けていない。
 妹を誘って高層部に行こうとしたが、サツキは首を横に振った。うっすら赤い雨が降りしきる日。いつもより水かさは増し、僕らの部屋も水浸しになっていた。
 サツキは描き溜めた絵を僕に渡した。そうして、引き出しの中にあるガラクタたちをその手ですくうと、頭から被った。
 ガラスの破片が。石が。サツキにぶつかり、突き刺さり、サツキの体は赤く雨を降らして
 「あの頃に戻りたい」
 そのまま、部屋を出て行き、それっきり――。
 僕は残されたサツキの机の引き出しを覗いた。キラキラ、破片は黙しつつ語っているよう。そして、サツキが残したものは。
 貝。
 いくつもの貝。
 口をつむいで、時に砂を吐く様に言葉を発する、サツキは、まさしく貝だった。
 
 高層の部屋に移った僕は窓を開け、赤みがかった雨を頭に受けながら、外を見た。
 いつかシェルターで耳にした言葉「ノアの箱舟」。選りすぐられた人間だけが高層の部屋から「下界」を見ることが出来る。雨の降る日、ピンク色の濁流が巻き起こり、また行方不明者が出る。サツキもあの濁流に。
 けれどきっとサツキは見つからない。赤い血を流し、ピンク色の濁流にその身を任せ、サツキは貝になる。
 
 僕は、長年出し続けた母の捜索願を、その日、打ち切った。
       **********
 警報の出されたあの日、空は驚くほど青かった。シェルターに人々が詰めかけた。僕も母に手をとられ、シェルターに向かって歩いていた。その道すがら。母は青い空を見て
 「懐かしい色」
 そう言うと、青い、青い、空の中へと飛び込んだ。
 空は本当に青かった。ずいぶん青かった。けれど大気は荒れていた。だいぶん荒れていた。飛び込んでいった母は、まるで狂ったトビウオのように、青の中で姿を現したり、また見えなくなったり、飛び上がったり――
 「ママ!」
 僕の叫びを母は耳にしただろうか。
 「ママ!」
 遠のく景色に母は何を思っていたのだろうか。僕は周りの大人に小さな体を抑えられ、そして引っ張られるようにしてシェルターに続く道へ。母は離れていったけれど――
 
 あの頃に戻りたい、と、サツキは。
 懐かしい色、と、母は。
 
 僕は再び「下界」を眺めた。溺れる人々。魚のよう。見えなくなった人々。貝。
 
 窓を閉め、僕はサツキに渡された絵画を1枚1枚、見た。
  真っ青な景色。
  魚のように人々。
  もの言わぬ貝。
  ピンク色に染め上げられた景色。
  魚となった人々。
  もの言わぬ貝。
 僕は再び窓を開け――
       **********
 (壊れた)
 衝撃が胸を打つ。圧力、うねる。
 (ここだったのか)
 ピンク色の空を、白いひとつの尾をひきずりながら飛行機が走った。正されようとした秩序。生命は、狂う。
 (見たかったものは)
 きこえてくる。におってくる。すべて五感が戻ってくる。ずいぶん、ずいぶん僕は遠くへ来たのだが、ずいぶん、だいぶん僕は近くになったのだ。
 遠く、つんざくように
 「…われた!」
 あの声は、ああ、
 「まるでダメだ」
 もう、
 「見込みはない」
 いや、ちがう。脈打っているものを知らないか。僕は臓器になったこと。
 「まだいた?」
 「いいえ、もう」
 見えないんだろう。僕のこと。
 ここは青い。ずいぶん青い。青い中で泳ぐ僕を、いつか見つけるんだろう。母も―――妹も。
**********
 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あれは何?」
 「トビウオ」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あれはなぜ?」
 「景色を見るため」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
 「ここはどこ?」
 「答だよ」
  すべてをつなぐ、答だよ。

砂の町

 川沿いを除いたほかは、もうすっかり砂になっている。
 町を彩る草木は消えた。
 僅かに水脈を作る隣の川辺に、申し訳程度に点々と緑が伸びる。だがその緑も、太陽に焦がされて先端の色を変えている。
 この町は今、枯れる手前。
 男は、川に架かる橋を管理している。ずいぶんたくさんの人が、草木を求めて橋を渡って行った。中には、もうこの川に橋は必要ないのだからと川縁に降りて川に沿って歩いていく若者の群もあった。
 町には、老人ばかりが残った。
 男も、冬が過ぎたらこの橋を離れて旅に出よう、と思う。
 この町は今、なくなる手前だ。
 男は、男の父親の家を訪ねた。そして、自分がいなくなったら橋の管理を頼めないか、と訊いた。父親は了解した。
 樹木を失った町に、風は厳しく吹き付け、家々はきしんだ。橋もうめいた。この町を守るものは、どこにもなかった。
 男は橋を支える柱を強化するため、寒さを堪えて外に出た。川辺の草たちは風にふるえていたが、色を失いもせず、地中に根を深く這わせていた。
 冬が過ぎた。
 男は町を出て行った。
 男の父親は男に代わり、毎日橋を見守った。壊れそうな時はほかの老人も誘って直した。
 老人たちには、町を出る体力がなかった。町を出た子供たちが帰ることもなかった。しかし橋は守られた。
 やがて老人たちは飢えと年月に枯れ、死んでいった。骸は細く折れそうな数本の腕に運ばれ、砂に埋められた。
 いよいよ最後の一人となった彼も、もう死期が近いのを感じていた。彼の亡骸を運ぶ腕腕はもうない。川沿いに彼はひとり歩いた。川はもう、その力を殆ど 失っていた。それでも、歩き続ければ、まだ水が流々とする部分があった。彼はそこに身を投げた。軽く、木の葉のようになった体は、岩場に留まり、ただ冷た さに迎えられた。そうして、最後の町人は、消えた。
 それから何年も経った。
 何十年、何百年と経った。
 砂は風に吹かれて少しずつ移動した。
 川は砂に埋もれたが、川もまた少しずつ移動した。
 雨が降った。
 太陽が照った。
 雪が降るときもあった。
 いつしか町は、草木が萌える町に変わった。
 風は砂を運ぶだけでなく、遠くから栄養や草木の種子も運んでいたのだ。
 その中でもひときわ多い種は川辺にある。これはこの地が砂に埋もれる前からあった草だった。深く根を張った彼等は、焦がれ、凍えながら、長い年月をかけて生き延び、種を増やし続けたのだ。
 あるとき旅人がこの地に訪れた。彼は、かつてここにいた人々とはまるで違う服を着て、この地が初めて受け入れる乗り物に乗ってやってきた。
 旅人の後にはたくさんの人がやってきた。
 町はあっという間に作られた。
 ひとりの新しい町人が、川のないところに橋の柱の名残を見つけて笑った。
 それを聞いた別の町人が、いろんな機械を使って地中を調べ始めた。
 冒険心と好奇心に溢れた少年は、自分の家より少し離れたところに湖を見つけた。
 そうして新しい町は、町が歴史を持っていることを発見した。
 ある男は思い出した。自分の先祖は砂から逃れて彼地へ行ったのだ。そしてこの男もまた、砂から逃れて此の地へ来たのだった。
 湖の底の泥の中から古い骸が見つかった。
 偉い学者によれば老人の死体だという。死因まではわからなかった。なぜ湖にあるのかもわからなかった。とにかく、古い町の老人だろう、というところで落ち着いた。死体の骨は薬品を施され、重要歴史文化財として博物館の地下に保存された。
 男は、かつて住んでいた砂の町に残してきた両親を思った。
 いつかあの町にも草木が戻るのだろうか。そしていつかあの町の跡が、このように見つかるのだろうか。
 そうだと良い、と男は思って、川に架かる橋の見張りに出かけるのだった。

神代綺譚

1.スズメ

深く繁った森の奥から、足音を立てることもなく、風が立てる木々のざわめきだけにリズムを合わせ、それこそ風のようにスズメは飛び出してきた。森を抜けると木々がまばらになり、集落が見える。
(早く知らせなくては)
その思いだけでスズメは集落の中心部——お宮——の入り口に走りたった。
お宮の番人はスズメの切羽詰った表情を見て事態を悟る。
番人がスズメとともにお宮の入り口からボソボソと合言葉を告げる。お宮の扉が開けられると、中心に置かれた松明の明かりだけがぼうやりと、数人の巫女と、1人の女を照らした。
女は言葉を発することもなく、視線だけでスズメを中に入れた。番人は出て行く。
スズメは深く礼をしてから、呼吸を整えると、凛とした声で報告を行った。
「ヤマタのクニは呪術ならぬ、光る槍や弓、刀剣を持っております。わたくしが調べに入った日にはトドロのクニへいくさをしかける話し合いを行っておりました。その後トドロのクニを見ましたところ、トドロのクニでもいくさの準備を始めておりました。しかしヤマタのクニの武具に比べましたらトドロのクニの武具は見苦しいもの。ヤマタのクニが東へ進出し、やがて我がタカマのクニにまでやってくるのは時間の問題かと思われます。取り急ぎ、対策を練られたほうがよろしいかと思います」
そこまで一気に報告すると、巫女が1人、お宮の端においてある瓶から器に水を汲み、水の中に唾を吐いた。続いて隣に控えた巫女が唾を吐き、最後の巫女が唾を吐くと、スズメの頭に水をかけた。他のクニへ行って来た者を浄化する簡易な儀式である。
スズメは深々と頭を下げると、女の視線に従ってお宮の扉の前で再び合言葉を告げた。扉は開かれ、再び眩しい太陽の下に出る。
番人は「ご苦労だった」とスズメにひとこと告げる。スズメは頭を下げてお宮を離れると、また走り出し、森に向かった。森の手前にある岩を動かすと、その下の洞窟がスズメの住む場所である。
やはり足音を立てず、細い階段を下っていく。光は失われた。通常、突然の明かりの変化に人の目が順応するのは遅いが、スズメは違った。どのような場所でも、どこにいても「景色」を見ることが出来た。
「おかえり」
地下洞内に響く囁きのような声がスズメを迎え入れた。
「ツクヨミ様」
声の主はすらりと背の高い、漆黒の髪と漆黒の服を着た男である。男はスズメを抱きしめると、つむじに唇を当てた。
「だいぶ疲れているようだね」
その声にスズメは首を横に振ったが、ふと気を抜いた隙に足元がぐらついた。5日間走り続けたのだ。ツクヨミは腰をかがめてスズメの足に手を添えた。ツクヨミの手から白い光が出て、スズメの足を撫でた。
「少しは楽になっただろう」
スズメは、コクン、と、うなずいて、跪き、「ありがとうございます」と礼をした。それから、自分の修行所である洞内の横穴に入り、横になった。
向かいの横穴にいるサキが、スズメの穴にやってきて、いくつかの果実を渡した。
「ありがとう」
果実をひとつ、かじると、甘味と水分が体中に広がった。この5日間を癒すようだ。
サキも、ひとつ果実を手に取り、かじった。そして、スズメの手に触れ
「危ないのね」
と、ひとこと述べた。
スズメは横になったまま「どんな先が見える?」と問うた。
サキは「あんたの危惧そのままよ」と答えた。
そのやり取りを聞いていたキキトリが「オムナ様は武具を増やすことを考えていないようだ」と呟いた。
「むやみにオムナの声を聞くんじゃないよ」
ツクヨミはキキトリに厳しく囁いた。キキトリはサキとスズメにチラリと舌を見せると、修行を再開した。瞳を閉じて、体の穴という穴から体の中に入り込んでくる声に、あるものには注意を傾け、あるものは聞かないようにする。そのコントロールがこの少年には必要であった。
ツクヨミが管理するこの洞内ではときとしてうめき声が聞こえた。ここは、特殊な能力を持った者たちが集められ、その力を高めるための場である。彼らの力は制御が出来ないほどに大きいがために、ツクヨミがこの洞内を修行地に選ぶ前には、大きな騒ぎを起こし、集落の人々に不安を与えることが多かったという。うめく声はコントロールに苦しむ声である。
スズメはどこにいても全てのものが見えてしまう。気を抜けばこの洞窟の外の地上にある太陽どころか遠く離れた土地での出来事でさえ見えてしまう。全てを見ないで、見たいものだけを見るようにすることが、少女の精神の安定には必要だった。それでも、見たくないものが見えてしまうときも、見なければならないときもある。
そしてサキは、人に触れることで、その人物の記憶が紡ぎ出す先を読むことが出来た。この能力は非常に重宝されており、洞内にいる者の中でもサキはもっともお宮に呼ばれることが多かった。
そして今回も、
「サキ、オムナ様が呼んでいる。スズメとネムリを連れてお宮に来るように、と」
キキトリが告げた。

2.オムナ様

ネムリが目覚めたときには、すでにお宮の中にいた。
全ての巫女が出払い、女———オムナ様、サキ、スズメ、ネムリの4人だけがそこにいた。
オムナが口を開く。
「ネムリ、どのような夢を見た」
ネムリは洞内にいる能力者たちの中では最も幼い。まだ言葉すらきちんと使うことすらできないような幼女である。しかし、その幼さ故か、サキが読んだ先の未来を捻じ曲げるための夢を見るという能力を持っていた。
ネムリはまだぼんやりしながら、夢の内容を少しずつ話し始めた。
「キラキラしてるものが、人を殺せる。キラキラしてるものは、海の向こうにたくさんある。キラキラがないと、死んじゃう」
オムナは次にスズメに問う。
「光る武具は、海を渡らねば手に入らぬか。ここらで作ることは出来ぬか」
「光る武具は、特別な加工を施されているようです。材料は見えますが、加工方法は見えません」
オムナは次にサキに問う。
「ネムリの先を読め」
「降伏か、全壊のどちらかです」
「降伏のときはどうなる」
「失礼申し上げます。オムナ様が、殺されます」
「全壊のときはどうなる」
「失礼申し上げます。ヤマタの軍も、タカマの民も、我々異端者の能力制御が効かなくなることで、全滅いたします。無論、我々も」
「タカマが勝つ先は見えぬのか」
「失礼申し上げます。今の私には、見えませぬ」
オムナはさらにネムリに問う。
「死なない夢は見なかったか」
「見た」
オムナの瞳孔が大きく開いた。
「それはどのような夢だった?」
するとネムリは、夢の内容を思い出したのか、わんわん泣き始め、何も言わなかった。サキがその手に触れようとするより前に、オムナは立ち上がり、瞳を閉じてネムリの頭に唇を当てた。
しばらくの時間、オムナはそうしていた。ネムリは母親に甘えるようにオムナにしがみついて泣き続け、やがて泣き疲れて眠った。
フと、オムナの睫毛を濡らして涙が流れた。サキとスズメは驚いた。決して感情を顕わにすることのないオムナであった。驚きを隠そうと、スズメはサキの手をつないだ。そうするだけで二人は会話が出来た。
(オムナ様はどんな先を見ているの?)
(まったくわからない)
(スズメ、次はどんな夢を見るのかな)
(そこまでわかるのはツクヨミ様くらいだよ)
(あ、ツクヨミ様がいらっしゃってる)
(え?)
(お宮に向かって来てる)
オムナはネムリの頭から唇を離した一瞬、涙を流しながらお宮の外の太陽を見上げて微笑んだ。そして、いつもの硬い表情になると、
「ネムリを連れて、戻りなさい」
と、丁寧に自分の腕の中のネムリをサキに抱かせた。ネムリはそれでも眠り続けていた。
サキとスズメがお宮を出るのとすれ違うようにして、ツクヨミがやってきた。
「ほら」
スズメはサキに囁いて、ツクヨミに頭を下げた。ツクヨミは柔らかく微笑し、2人を見送った。
しばらく歩いてから、サキがスズメに「ツクヨミ様が好きなんでしょう?」と、言った。
スズメは驚いたが、「それは、親切にしてくれる方だから」と、顔を赤くして答えた。
サキは「スズメも女らしいところがあるんだね」と、意地悪そうに笑い、ネムリを抱きながら肘でスズメの小さな胸をつつき「ああ、ここがもう少し大きければねえ」と、からかった。
スズメは顔を赤くしたまま口をつぐんで、何も言わなくなった。
遠くの物まで見通せる少女は、幼い頃から偵察用に鍛えられてきた。サキやキキトリがほとんど集落を出ないのとは正反対に、スズメは遠くまで偵察に出るため並外れた体力を持っていた。それ故に、年のほとんど変わらないサキとも胸の膨らみは全く違った。
そのスズメの声には出さない言葉を、それは特異な能力ではなく、人として当然の能力で、サキは読み取り、呟いた。
「大丈夫。スズメは、最期までツクヨミ様と一緒だよ」

3.森

その日、スズメは前回よりもずっと鬼気迫った表情で森を駆け抜けていた。途中、鹿のオサがいる山深いところまで足を運んだ。他の獣たちにも知らせるべきだと感じたが、それだけの時間はなかった。この森の獣のオサは鹿のオサである。小さな川に沿って急いた。森を進むにつれて獣道すら見えなくなる。自分の足跡を残さぬよう、スズメは木の幹から木の幹へと足を運ばせた。
やがて、川は細くなり湧水のそばまで来た。オサが住んでいるのはそれよりさらに奥である。
森の一番深く、そして一番高い位置に、巨木がある。巨木の根のひとつの周囲にぽっかりと空洞がある。スズメはその根につかまり、空洞へと降りた。降りてゆくにつれて温度が下がり、ひやりとした風を感じた。しかしまたも5日間走り続けたスズメにはそれが少し心地よかった。
様々な樹木や草花の根が天井にあり、土から浸み込んだ雨水がひとつの池を作っている。池の中央には苔むした巨大な岩がある。その岩の中央に、うっすら白く光る大きな鹿が座していた。オサである。そのオサを守るように、数匹の鹿が耳を立てて立っていた。
「突然の来訪、失礼いたします、オサ」
スズメは深く頭を下げた。オサも護衛も何も言わない。彼らの言葉を聞き取れるのはキキトリとツクヨミだけである。
「西の方角にて、巨大な獣を見ました。今、わたくしの目に見えますのは、ヤマタの民がそれらの獣に乗り、鋭い武具でトドロのクニへと出撃する景色であります。これまでこの森は複雑さと高低の激しさから西のクニから攻め入られることはありませんでした。わたくしどものクニはこの森に守られ続けておりました。しかし、今、ヤマタの軍があの巨大な四肢の獣に乗り、光る武具を手にトドロのクニに続く山を越えております」
スズメは西を必死に見た。
惨殺される獣。なぎ倒される木々。トドロのクニを守る山のオサと、ヤマタの軍の攻防戦。
見たくないもの。しかし今はしっかり神経を研ぎ澄まし、そう遠くはないヤマタの軍の侵入に備えて報告すべきことがある。
「オサ、どうぞこの森の獣たちにお伝えください。静かに隠れるようにお伝えください。そうでなければ、この森の獣たちは殺されてしまいます。今もわたくしの頭には見えております。巨大な獣は山道に強く、光る武具は鋭く獣を斬り殺します。オサ、どうぞこの森のためにも、お隠れくださるようお願いいたします。わたくしどものクニは先日の先読みによりまして、救われないことがわかっております。けれどこの森はお守りください。この森が破れては、この土地が枯れることになるでしょう。どうか、お願いいたします」
急いでおりますので、これにて失礼させていただきます。そう告げて頭をまた深く下げると、スズメは降りてきた根をつかむとすばやく上がっていった。
足音を立てないように足跡を残さないように森を抜けて、お宮に急ぐ。

4.儀式

お宮にスズメが入ってきた途端、オムナは報告も聞かずに「浄化を」と、巫女たちに告げた。今度は水ではなく酒を汲み取り、巫女たちではなくオムナ自身が唾を吐き、何ごとか唱える。スズメを松明の前に立たせ、炎の上に頭をたれさせると、自らの手でスズメに酒をかける。一瞬ゴウッと音を立てて激しく火が燃えたが、すぐにおさまり、そして、スズメには火傷の痕すら見当たらなかった。
「よほど酷い景色を見たな」
浄化の儀式によって落ち着きを取り戻したスズメは、一連の景色の報告を行った。
謎の獣。光る武具。壊される森。
「今も見えております。ヤマタがトドロのクニに突入しました。トドロのオサが出て来ております。いくさにはまだ発展しそうにありません」
若い巫女の1人が瓶から水を汲み、唾を吐いてスズメに渡した。スズメはそれをありがたく飲む。
オムナは、すでに控えさせていたサキにスズメの頭を触らせた。
「いつ頃ヤマタはここに来るか」
「あと2日もすれば来るでしょう。今日のうちにトドロとヤマタはいくさを始めます。しかしヤマタは瞬時にトドロを征服します。トドロで一日休息を取り、明日、わたくしどもタカマのクニを目指します。トドロからあの森を抜けてやってきます。その途中で一旦休息を取り、さらに翌日太陽が昇るとまた動き始めます。昼頃には、お宮の前に着くことでしょう」
「ネムリはどうしている」
「ここ7日間、眠り続けております」
オムナはそれ以上何も言わず、さきほどの若い巫女がサキにも水を飲ませた。
2人が出て行くのを見計らうと、オムナはサキとスズメに水を与えた若い巫女だけを残して他の巫女を出払わせる。
そして、つむじに唇を当てた。続いて瓶から酒を汲み取り、口に含み数回噛んでから、酒を若い巫女に口移しする。若い巫女はそれをやはり数回噛むと、飲み込む。続いて巫女の衣服を脱がせると唾を吐いた酒を全身に浴びさせる。若い巫女は何ごとか言葉を唱え続けた。オムナはさらに松明を手にとり言葉を唱え続けながら巫女の全身に炎を浴びせた。やはり巫女は火傷ひとつない。オムナはまた酒を全身に浴びさせ、衣服の中に隠していた銅刀を松明で焼き、巫女の背中に傷口を作り紋様を描く。傷口からは血が少し滴った。最期に紋様を唾を含んだ舌で全て舐め、水を浴びさせると、再び衣服を着せた。
「オムナ様」
若い巫女は細い声で呟く。
オムナは眉ひとつ動かさずに
「ツクヨミの洞に行け」
と告げた。
若い巫女は涙を流す。オムナは表情ひとつ変えない。
若い巫女は涙を指でそっとふき、お宮を出て行った。

5.異端者たち

洞の岩戸はしっかり閉ざされた。
それぞれの修行場である横穴から能力者たちはツクヨミを中心に円を描くようにして集まった。ツクヨミの隣には、あの、若い巫女がいた。
「突き当たりの土を崩すと縦穴がある。見えるな?スズメ」
「はい」
「その縦穴を降りてゆくと水脈に沿った横穴がある。横穴を進んでゆけば新たに神聖な土地に出る。私もいずれはそこに向かう。そこで再び修行を繰り返せ。お前たち能力者は異端者だ。修行をしなければ普通の生活が営めない。しかし、この大いなる、水と森と大地の世界にはお前たちのような存在が必要なのだ」
ツクヨミはそこまで言うと、突き当りまで進み、手を当てた。手から白い光が出ると、土は崩れて縦穴が現れた。
「アカル」
アカルと呼ばれた少年が立ち上がる。瞳が金色をしている。
「お前が先頭になり、道を照らせ」
アカルの能力は、瞳が光を発することであった。幼い頃はコントロールも効かず、生みの親にも気味悪がられ、この洞内へと連れてこられた。
続いて、ツクヨミは水の匂いを嗅ぎ分ける能力を持つ「ハナ」という老人を指名した。この老人はまだ若い頃に自らの能力に気がつき、能力を高めるために自らツクヨミのもとにやってきた。
「お前は分かれ道で良い水脈を選び、方向をアカルに伝えよ」
そのようにして、幾人かの能力者が役目を指定された。そして
「サキ。お前はネムリと、オムナを守るのだ」
「ネムリと、オムナ様を?」
ツクヨミは頷いた。そして若い巫女を前に出した。
「この女が新たなオムナとなる」
ざわめきが起きる。
「今のオムナ様はどうなる」「死んだのか」「まだ死んでない」「では死ぬのか」
ツクヨミは何も語らなかった。やがてざわめきが自然におさまると、名前を呼ばれなかった者たちと、名前を呼ばれた者たちに分けた。スズメの名は、呼ばれなかった。
「今、名前を呼ばれなかった者たちは、ここに残り、ヤマタのクニとの戦いに協力することになる」
洞内は静まり返った。
ツクヨミは、普段は見せないような厳しい表情で話を続ける。
「アカル。もう行きなさい。時間がない」
「サキ。くれぐれも、オムナとネムリを守るように」
トビハネという男がアカルを抱いてまず縦穴に飛び降りた。この男は驚異的な跳躍力を持っていた。縦穴は深く普通に降りることは不可能である。アカルは瞳を見開いて道を照らした。トビハネは1人ずつ、軽い者は2人両脇に抱えて道行く者たちを縦穴の底に運んだ。
若いオムナとネムリも運び出され、残るはサキとなった。
「トビハネ、ちょっとだけ待ってくれる?」
「ああ、だが急げ」
サキは、スズメに近寄ると、強く抱きしめた。スゥッと、涙が頬を伝った。
スズメも、少し泣いた。
サキは、全ての残された者たちの手に触れていき、背中だけを見せて、何も言わずにトビハネとともに縦穴に消えていった。
ツクヨミが再び、縦穴のあったところに手を触れると、そこはまた突き当たりとなった。
残された者は、スズメ、キキトリ、コエ。コエはやや年のいった女だったが、コントロールがよく効いた。その能力は、自分の声を特定の人物にだけ伝えることであった。
ツクヨミは、残された3人の中央に立って、指示を与えた。サキはヤマタの動きを見てそれをコエに伝える。コエはそれをお宮にいるオムナに伝える。キキトリはオムナの言葉を聞き取り、ツクヨミに伝える。
「サキ、ヤマタは今どこにいる」
「今、トドロを出たところです」
ふむ、と、ツクヨミは瞳を閉じると、3人のつむじに唇を当て、「すぐ帰る。決してその場を動くんじゃない」とだけ言い残し、ふっと消えた。
しばらく沈黙が続いたが、キキトリの泣き声が聞こえ始めた。
「サキの声が、聞こえたんだ」
スズメは、長年一緒にいた同じ年頃の友と離れた寂しさと、次にキキトリが言う言葉を予感し、声に出さずに涙を流した。
「死ぬんだ」

6.ツクヨミ

馬に乗ったヤマタの軍がタカマのクニに続く森の手前に、ツクヨミは立っていた。
「私の声が聞こえる者はいるか」
いつもより大きく出されたツクヨミの声に反応する者は、1人としてヤマタの軍にはいなかった。
ヤマタの軍が森の中に入っていく。大きな馬の蹄は草花を蹴り散らす。
ツクヨミは次に森のオサのところへ行った。
「獣たちは、静かにしているか」
オサの言葉はツクヨミの頭に響いてきた。
「静かにしているようにと伝えた。どのような驚くことがあろうと隠れているようにと。しかし全てのものの命は保障できない。臆病なものもいる」
ツクヨミはオサのいる岩場に立ち入り、オサの2本の角に唇を当てた。そしてしゃがみこむと、次はオサがツクヨミの頭を舐めた。
「ヤマタのクニの人々は、世界のとらえ方がわたしたちとは異なっているようだ。わたしは戦いに参入できない」
それだけ言い残すと、ツクヨミは再び洞内に戻った。
そこにはひととおり涙を流し終えた3人の能力者がいた。ツクヨミは3人の頭に手をかざした。ツクヨミの手のひらから出る光はやわらかく、やさしく、3人は平常心を取り戻した。
ツクヨミは、再び厳しい表情に戻った。
「始める」

7.旅路

アカルを先頭にして、何人もの能力者が地下を歩いていた。ネムリを抱いたサキと、若きオムナを真ん中に挟み、最後尾にはノコラズという女がいた。ノコラズの通った道は全ての匂いと痕が消えていく。どちらに逃げたかを残させないため最後尾に配置された。アカルの次を歩くハナがいくつかの分かれ道で「良い方向」を示した。
ネムリは相変わらず眠り続けている。サキは、以前にオムナがネムリの頭に唇を当てたことを思い出した。あのときオムナはネムリを眠らせ続ける呪術を使ったのだ。そして、次にネムリが夢から覚めるのは、きっと、新たな土地にたどり着いた時だ。

8.いくさ

タカマのクニにヤマタの軍がたどり着いたとき、既にオムナはお宮の扉の前で控えていた。民衆も全てお宮の近くに集められていた。それまでに何匹もの臆病な獣が森で斬られるのをスズメは見た。それでも森はいくらか守られた。
ヤマタの軍の指揮者が馬から降りる。
「降伏の準備は万端というところか」
オムナが答える。
「そうではありませぬ。まず、その物騒な光る武具を捨ててもらいましょうか」
ヤマタの指揮者は大声で笑う。
「負けるのがわかっているからそのようなことを」
オムナが答える。
「そうではありませぬ。わたくしどもは、いくさを良しとしませぬ」
ヤマタの指揮者が満面の笑みで言う。
「では、降伏して我々の指揮下につくか?もちろん、お前は死ぬことになる。クニに主は何人も必要ないのだ」
オムナが答える。
「そうではありませぬ。あなたがたとわたくしどもは相容れぬ考え方。ここはお引取願います」
ヤマタの指揮者はまた大声で笑う。
「我らは更なる東を攻略することを目指しているのだ。それを引き返せとな」
ヤマタの軍がいっせいに武具を構えた。

「攻撃、来ます」
「ヤマタの指揮者はお宮を焼き払うつもりだ」
「お宮を焼き払うつもりでいらっしゃいます」
「こちらから松明を投げろとオムナに」
「松明をヤマタの軍にお投げください」
「民衆が何をすれば良いかとざわついています…痛い!」
あまりに多くの声を聞きすぎて、キキトリは苦しみ悶えた。ツクヨミはキキトリの頭に手をかざし、また唇を当てる。
「民衆も各々火を投げなさい」
「各々火を投げるようにとのことです」
「ヤマタの軍は火を投げる者たちと、武具で攻撃をする者に分けられました」
「女子どもをこちらに!」
「女子どもを洞内へ!」

民衆が投げた火に馬は慄き、混乱して落馬する兵が何名もヤマタに出た。馬は森へ逃げるものもあった。その途中でしかし落馬してもなお、ヤマタの民は自分に課された任務を真剣にこなす。火で攻撃をする者たちはまずお宮に向かってまず油を注ぎ、続いて弓で火を放つ。油で燃えやすくなったお宮はパチパチと音を立てて燃え始め、崩れ始める。オムナはその中でも動きはしなかった。ただ言葉を唱え続ける。
タカマの男たちは火を投げたり、お粗末な武具で攻撃をしながら、女と子どもをかばい、洞へと導く。しかしそれに気がつかないヤマタの兵がいないわけがない。
「そっちに何があるんだ」
幾人かの兵らが武具を手に洞へ向かった。それを阻もうとしたタカマの男が何人か斬り殺された。ツクヨミは岩の扉を開け、逃げのびてきた子どもや女の手を引き、中に入れた。
そして再び突き当たりに手をかざし縦穴を出現させると、キキトリに縄を渡した。
「お前はアカルたちの後を追いなさい。アカルたちの声を聞き取り、女子どもを数人だけでも導いていくのだ」
子どもや女たちは次々と縄から縦穴へと降りていく。まだ小さな男の子どもが1人、細い足で階段を下ろうとしたとき、子どもの背後で陰が動き、キラリと何かが光ると、子どもは鉄製の刀でひと突きにされた。洞内に血飛沫が飛ぶ。子どもを突き刺した刀を持った男が、ゆっくりと洞内に入ってきた。
「こんな隠れ家があったのか」
男は、刀に突き刺さったままの子どもを、洞の岩戸にこすりつけ、刀から外す。洞の入り口からは子の流す血がぼたぼたと流れ落ちた。
ツクヨミは険しい表情で声を張り上げる。
「コエ!お前もキキトリとともに行け!アカルたちに声を届けろ!」
コエは、一瞬スズメを抱きしめると、すぐに縦穴の奥に入っていった。
(さようなら)
その声はスズメの胸の辺りに聞こえてきた。
ツクヨミは再び手をかざし、縦穴に蓋をする。
ヤマタの兵はそれを見て「そっちに逃げたのか?どんな仕掛けだ」と、スズメを斬ろうとした。スズメはすばやくそれを交わす。ヤマタの兵が次々と洞の中に入り込んで来る。ヤマタの兵たちにツクヨミの姿は見えない。ヤマタの兵の目には少女が1人映るだけである。ツクヨミが青銅の剣をスズメに渡す。
「あの者たちにわたしが見えない以上、わたしはあの者たちと戦うことが出来ない。スズメ、最期まで戦え」
幼い頃から鍛えられ続けた理由はいくさの時のためでもあったのだ。スズメは深く理解した。
キキトリが泣きながら放った言葉「死ぬんだ」。「死ぬ」のは、自分なのだ。
サキがからかい半分に言った「スズメは、最期までツクヨミ様と一緒だよ」という言葉。
サキはあのとき、この時を先読みしたのだ。
鍛えられたスズメの肉体は、鉄製の刀に青銅の剣という分の悪さを抱きながらも、俊敏な動きで攻撃を交わし、同時に攻撃を仕掛けた兵を切り倒す。1人、2人、3人、4人目を切った瞬間、スズメの目に強烈な景色が映った。
「オムナ様…!」
その隙を、ヤマタの兵は逃さなかった。
ギラギラ光る鉄刀が、スズメを2つに切り裂いた。
どさり、どさり。
2つに分かれたからだは異なる速度で地に落ちる。洞内は血に満ちた。
生き残ったヤマタの兵は、半分になったスズメのからだを一蹴りしてから、洞を出て行った。

燃え尽きたお宮の灰の上でオムナは焼け焦げた姿となって倒れていた。
ヤマタの兵はそのオムナの焼け焦げた姿に更に火をつけ、森で斬った動物の肉を焼いて食った。そして酒の入った瓶を見つけて酒盛りを行った。

9.世界

真っ赤に染まった洞内で。
ツクヨミは2つに分かれたスズメの体を拾い上げ、慈しむように口付けをした。すると、スズメの体は真っ赤な砂に変わった。その砂を袋に詰めて衣服の中に入れると、ツクヨミは空に飛び、月に飛び乗った。丸く、青く、美しい水晶玉のようなこの世界。青い海と、緑の山々。木々の間を縫って流れるたくさんの川。
ヤマタのクニは滅びたが、森は生き延びた。森が生きている限り、この水晶玉が崩れることはないだろう。

アカルたちは水脈に沿って地下洞を歩いている。ときに休んで、また歩いて。
やがてキキトリとコエ、そして逃げ延びた子どもたちも追いついた。
サキが呟く。
「スズメは来なくて、良かったわ」
キキトリはスズメの最期の声を思い出し、泣き始めた。
「スズメが来ていたら、この逃げ道の最中でさえも、残酷な景色を見続けてしまったんだから。私たちのように、希望をもって逃げ続けることなんて出来なかったわ。だからあの子は…ツクヨミ様の元で最期を迎えて幸せだったのよ」

ツクヨミは、アカルたちがやがてたどりつくはずの地点に舞い降りる。
ネムリはサキの腕で眠り続けるまま。
新たなオムナは、オムナの死を背中の紋様に感じながら、旅の無事を祈る言葉をつぶやいた。

アカルたちが再びツクヨミと出会うとき、ネムリは長い眠りから目覚め、最初に呟く。
「ここから始まるの」

小説の解説

順番は適当であります。

<学園モノ?>
すみっこ」…教員シリーズとでもいうべきか。今はアカサカくんてただの厨二病じゃんって考えてしまって、だいぶ汚れました。
パンク・ロック」…ザ・青春。WEB企画に参加して好評いただけたやつです。
highteen」…いやらしいくらいにうけを取りに行きました。
午前零時の田崎くん」…上記3作品から10年くらい経て。あんまり「変わってないほう」の作風。
愛しの愚者マリイハンナ」…上記3作品から10年経って、これは「変わったほう」ですね。現代日本を舞台としないどこか遠い世界の話です。翻訳作品を読んだあとってかんじっすね
接触」…最初kissingという適当なタイトルでしたが、読み返して接触がモチーフだったんだなと思って接触にしました。タイトルつけるセンスがない。

<ファンタジー?>
神代奇譚」…もののけ姫が好きで古事記が好きで空白の4世紀って単語ラブって。こちらもWEB企画に参加した作品
砂の町」…ガラケーでメール更新しまくってた頃の作品。長期的な気候変動ってやつがわしゃあ好きで好きで
Kai」…夢に出てきた終末世界は空がピンクでビルは半壊で地面は水浸しだったんですよね。WEB企画参加作品。
朽ちる私」…青木が原樹海に行ったら生きる意欲ばかり湧いた後にできた物語です、これもメール更新で短い。気に入っているので朗読に使ったりしています。

<その他>
寒椿」…Web企画参加の。なぜか感想いただけたりしましたが、やっつけ感漂っています。
水道橋」…Web企画参加の。中央線がテーマだったような気がします。こっぱずかしいけどあえての再掲載。
トモは死んだ」…比較的気に入っている作品を選びましたが、数字の表記とかひどいですね。改行は減らしました。
「IWATE」…Web企画参加の。ずっと「ないわー」と思ってましたが、ふと読み返してみたらばかっぽくて面白かったので再掲しました。

<ある意味特別>
伸吾の春」…はじめてサイトを解説したときに、何か書こうと思って書いた小説。これによってサイトの方向性は決定づけられたのでした。

<PDF>
恋するミソラ …いわゆる「ケータイ小説」へのリスペクトを込めてます。某文芸同人誌に投稿した作品です。許可もらったんで公開。修正とかもしてます。リンク作はPDFです

ワラウカドニハフクキタル …長めで読みづらいのでPDFにしました。もともとWEB公開していた作品です。2007年かな。「彼氏に振られてどん底の女の子がはちゃめちゃなのに1mmもオシャレやカッコよさはない展開にまきこまれて、劇的にではないけどなんとなく前を向けるお話」を作ろうとしました。

繁殖 …ChildLike16「生の感覚」に掲載。微妙に修正しました。ChildLikeはアイドルの特集とかしている謎の文芸同人誌です。10年以上参加しているけどよくわからない。未来について考えた作品です。PDF。

人魚のこと。…ChildLinke17「擬人化趣向」に掲載。修正入れてます。あいかわらず謎の文芸同人誌ですが対談とかもしてます。多分ファンタジーです。