人魚のこと

2017年8月  childLike No.17 「擬人化趣向」に寄稿したぶんを修正。
文字だらけで寂しいのでゆんフリー写真素材集様のお写真入れました。

人魚のこと

高校中退してから家族としか接触してないアラフィフのおばさん 美波と
結納がのびのびになってしまっているアラサーの姪 渚と
寒天状のなぞのいきもの「人魚」が
一緒に暮らすお話です。

アンデルセン 人魚姫 / 八百比丘尼伝説
あたりをもろに意識して書きました。

力技ハッピーエンド

IWATE

「お前、たしか作文得意だったよな」
夜中に突然電話してきた根元は、開口一番こう言った。
「得意っていうほどでも…」
「ばか、謙遜とかすんな、コンクールで大賞取っただろ。お前は作文得意なんだよ」
謙遜したわけでもないのにバカと言われて、僕は作文が得意だと勝手に決め付けられた。
「朝までにさ、岩手について800字くらいのコラム書いてFAXしてくれよ」
僕は言い返す隙もなかった。
根元はFAXナンバーを告げて僕に無理矢理復唱させると、一方的に電話を切った。
——と、言うのが、今僕がこの文章を書いている理由だ。僕はこれから岩手について何かしら語らねばならないらしい。しかも800字も。800字というと原稿用紙2枚分である。僕は今これをパソコンで書いているが(何故かというと、FAXナンバーを忘れてしまったから根元にメールで送るしかないのだ)、下のステータスバーに現在何文字かが表示される。
現在、半角で800字弱。この2倍を書かなくてはならない。しかも岩手についてだ。
僕は岩手に行ったことがない。
それでも書かなくちゃいけないらしいから僕は書く。
岩手といえば、恐山とイタコが有名だった気がする。それはもしかして青森だったかもしれないが、岩手ということにしておく。僕に電話をしてきた根元というヤツが、昔「イタコは全部インチキなんだぜ」と言っていた。彼にかかれば世の中の不思議なことは全部インチキなのだが、僕はこの世で一番インチキなのは根元だと思う。イタコについての知識があるんだし、根元は雑誌の編集者なんてやってるんだから自分でコラムを書けば良かったじゃないか。
少し話がそれたので元に戻すが、岩手には恐山があったとして、イタコが有名だったとする。イタコってのはたしか死人を呼んで自分に憑依させることの出来る不思議な人だったと思うが、僕だったらこの人を呼んで欲しい、と思う人がいる。
だがしかし、僕はそれをここに載せることが出来ない。ステータスバーは今1650字強。
つまり僕は根元に頼まれた800字程度を書き終えたのだ。
読者(どんな読者だかわからないが)の皆さんには申し訳ないが、僕の岩手に関するコラムはここまでです。
それではさようなら。

後日。
「下村!FAXしろって言ったのに何でFAXしなかったんだよ!」
「FAXナンバー忘れちゃったからさ。でもメールしただろ?」
「俺今出張なんだよ!メールなんか見れないだろ!」
「へぇー。そいつは悪いことしたなぁ」
「編集長に怒られて結局俺が書いたじゃないか!バカ!」

■雑誌「よいこのみんな」11月号掲載コラム「いわてけん」

いわてけん には、 おそれざん という やま が あります。
そして、この おそれざん には、 イタコ(いたこ) と いわれる、 ふしぎな ちから を もった ひとたち が います。
イタコ(いたこ) の ひとたち は、しんでしまった ひと を あのよ(しんだひと が いくところ です) から よびだして わたしたち と おはなし させてくれます。
とっても ふしぎ ですね。
きみは、この ふしぎ な おはなし を しんじるでしょうか。
じつは、ぼくは、あんまり しんじて いない のです。
そもそも ふしぎ な こと なんて このよ に ある と おもいますか?
ぼく は ふしぎ な こと なんて このよ に ない! と おもっています。
だからね、いわてけん の イタコ(いたこ) と いう ひとたち は みんな いんちき だと ぼくは おもいます。
みんなには まだ すこし むずかしい おはなし かもしれませんが、よのなかで にんげん(ぼくや、きみたち、それに おとうさん や おかあさん のことです。わん と ほえる いぬ や、 にゃー と なく ねこ とは ちがいます) ほど いんちき で うそつき な いきもの は いない とおもいます。
ぼくは きのう おともだち に おねがいごと を しました。でも、おともだち は おねがいごとを 「やってあげるよ」 と いったのに ほんとうは やってくれて いなかった の です。
ほんとうに、にんげん と いうのは いんちき な いきものです。
でも がんばれば いんちき な にんげん に ならない こと も できますよ。
みんな は、がんばって くださいね。 おしまい。

接触

 曇った窓から外を見た
 町工場の煙突が雲に紛れて煙を吐いた
 私はそれを見ながら溜息を吐いた
 今度は二人で横浜に行こう
 何かをスケッチしながら彼がそう言った
 横浜よりも鎌倉がいいわ
 私が答えた
 アパートの前の寂れた薬局では万引きが起きていた
 店主が中学生の首根っこをつかみ何か怒鳴っていたがその言葉を私はしっかり聞いていたわけではない

 彼は何を描いていたのだろう

「絵描きの彼氏は元気?」
 久しぶりに会ったあっちゃんが、チューハイをグイッと飲むと、何かのついでのように尋ねた。実際彼女にとっては「ついで」に過ぎないのかもしれなかった。酒の肴にもならない程度の。
 私は「自然消滅」と答えて、初めて「ああ、彼とは終わったんだ」と気がついた。別段寂しさもなければ悔しさもなかった。そこには愛がなかったわけではないと思ったが、愛がなければ付き合っていけないわけでもないし、愛がなかったことにしてもいいか、とぼんやり考えた。
 あっちゃんは「悪いことを聞いてしまったね」と言ったが、口調はちっとも悪びれてなかった。それでよい。彼女は飲み友達として最適だ。
「あっちゃんこそどうなの?反町隆史似の彼は」
 私は数ヶ月前に聞いた「合コンで知り合ったんだけど、超かっこいいの」という彼の話題をふってみた。だがそれは私の話題から転換させたかったから、というわけでもなく、挨拶のようなものだった。高校を卒業してから、女友達と会えば男の話になっていた。別段自慢しているわけでもなく、ただただ、「彼氏」というものが高校時代よりも密接に自分に関係するようになっていた。それだけの話だ。
 あっちゃんは私の背中を叩いて「何でそんなこと聞くの」と笑い、「熱々だよぉ、勿論」と言った。それから「クリスマスなんてねぇ、二人で温泉行っちゃってさ…」と話し始めた。聞いていないわけではないが興味津々で聞くわけでもない。彼女はそれでよいと思っているだろう。あっちゃんは飲み友達としては最適だ。
 反町隆史似の彼氏が本当に反町隆史に似ているのかどうかは定かではない。アバタもエクボとやらである可能性は多いにある。だが、本当に反町隆史に似ているのだとしたら町を歩く時は快感だろう。「あの人反町に似てる」と誰かは指をさし、それは嬉しい視線だろう。

 「絵描き」と町を歩くことは少なかった。私が出歩きたい性格ではないことも影響している。会いたくなったら私は「絵描き」の部屋に行った。そこは町工場が密集している汚い地域だった。家賃は案の定安かった。「絵描き」という自称職業は、そのチープさに彩りを添えた。
 たまには町を歩いた。「絵描き」が絵の具を買いたがったり、私が食事をしたがったりした。「絵描き」はそのときもスケッチブックを手放さなかった。街角で面白いものを見つけると、まず私にそれを教える、などということはしなかった。すぐにスケッチブックを開いてシャツの胸ポケットから鉛筆を取り出すとスケッチを始めた。私はその間、「絵描き」のシャツの裾をつかみながら「絵描き」とは別の方向を見ていた。人の流れを見ていた。人々で溢れているのに、人々を取り巻く社会は恐らく二、三人なのだろうことは推測するに易かった。それらは交わることなく過ぎていく。肥大化する社会では、むしろ人間の社会はミクロ化していくのだと、そんな話を社会学の講師の顔と一緒に思い出した。
 スケッチは大抵三分もかからなかった。「絵描き」はそのときになって初めてスケッチブックを私に見せて「これ、面白いだろ」と言うのだった。それでようやく私は「絵描き」がとらえていたものを見つけ出し、「なるほど、面白い」と思うことが出来たのだが、そのときにはもう「絵描き」は別のことに関心を移しているのだった。

 そんな関係も決して嫌いではなかった。

「それじゃあさ、それじゃあさ・・・まいこたんは今、フリーなんら、独り者なんら」
 そろそろろれつがまわらなくなってきたあっちゃんを見ながら、次のオーダーは止めさせよう、と決めている。彼女は私よりも酔ってくれる。飲み友達としては最適だ。
「そうね。フリー…じゃないかな」
 私は少し考えた。
「違うの?まーこたんはもう新しい男を作ってるの、いやらしい」
 新しい男、というほどでもなければ、いやらしい、と言われるようなことはまだ何もない。彼を愛しているのか、と言われればわからないし、それを考えれば、さっきと同じ、愛していなければ付き合えないわけでもない、という考えに至る。
「新しい彼氏はぁ・・・また絵描きなのぉ?」
 私はウーロン茶を一つ注文した。このへんの大学生だろうアルバイトが少しハスキーな声で「ウーロン一つ」と奥に声をかけた。
 また絵描きなの、と言うほど私は人と付き合っていない。絵描きと付き合うことは彼が初めてだし、恐らくこの先はそんなことはないだろう。大学を卒業すれば経済的なことも考えねばならなくなってくる。だがあっちゃんにいわせれば「個性的なまいこちゃんには個性的な彼氏がぴったり」なのだそうだ。少し笑う。
「普通の学生だよ」

 すぐに会える距離が一番の魅力かもしれない

 三ヶ月前に引っ越した。
 以前住んでいたアパートから学校は遠かった。これから卒論で忙しくなるし、そうすれば学校に近いほうがいいだろうと思った。「絵描き」のアパートからは五駅も離れた。会わなくなった理由はただそれだけだった。
 彼と親しくなった理由も、ただ歩いて五分の距離に彼の部屋が存在するという、それだけの理由だった。

 アパートではなくマンションだ。
 駅から歩いて10分、コンビニと本屋が目の前にあってオートロック。近くのスーパーには主婦よりも学生が溢れた。部屋にはミスチルのCDと流行の小説が置かれ、彼はあまりに普通の大学生だ。

 窓はカーテンがかけられていた。
「どうして?」
 と私は聞いた。
「だって、外から見られるの嫌だろ」
 と彼は答えた。
「開けていい?」
 と私は聞いた。
「いいよ」
 と彼は答えた。それから立ち上がって、私の後ろから手を伸ばし、カーテンを開ける。バッと光が飛び込んで一瞬目がくらむ。外は眩しかった。埃がふわふわと漂っているのが見えた。
「汚いよ」
 と私は言った。
 彼は私の髪の毛をそっと撫でた。
「掃除して」
 と言った。少し甘えた声で。そういった言葉や仕草には親しみを感じても、不思議とときめくことはなかった。愛されることはあっても愛することはないかもしれない、と感じる。

 窓の外では若者がコンビニの前で自転車を止めていた。彼と入れ替わるようにして年配の男性がワンカップのお酒を開けながら出てきた。
 この近辺では珍しい小学生が三人、ランドセルをカタカタ鳴らしながら走ってきた。
 コンビニと本屋の間の電柱の前で立ち止まる、じゃんけんぽん。
 二回くらいあいこが続いて、三回目にパーで負けた小太りの少年にランドセルが渡される。
 ちょっと笑った。
「どうしたの?」
 彼が私を上から覗いた。「ほら、小学生」私が指さしたときには、もう小学生は駆け出していた。
「小学生、どうしたの?」
「じゃんけんで、負けると荷物持たされるっていうの・・・よくやらなかった?」
 懐かしい、と私が言うと、彼は合点のいった表情になった。「僕もよくやった。いつも負けて、荷物持たされるんだ」
 懐かしむ表情を一瞬するので、私は「共有」という言葉を思い浮かべた。「絵描き」とは何一つ共有することがなかった。それでよかった。
「わかるな。あなたってそういう人よね」
「どういう人?」
「お人好し」
 彼の手が私の肩を抱こうとしていた。だが彼はそこに至れずに、髪の毛を撫でた。

 彼の部屋に出入りするようになってから一ヶ月が経った。
 「絵描き」の部屋に初めて入ったとき、「絵描き」は私を抱き寄せてキスをした。高校二年の時に付き合った野球部員ですら、三回目のデートでキスをした。
 彼は私の肩を抱くことすら出来ず、まるで割れ物を触るように慎重に髪を撫でることだけで私への愛情を示す。

 そういう関係も決して嫌いではない。

「きみは面白い」
 と「絵描き」が言った。
「きみの世界は面白いね」
 意味がわからなかった。
「あなたの世界のほうが面白いよ」
 私は「絵描き」の胸に寄りかかって言った。
「絵描き」はどこか見ながら
「きみと僕は最高の相性だ」
 と言った。

 最高の相性も距離には敵わない。
 いちいち電車に乗ってまで出歩くのは好きじゃない。

 年度末が近付いてレポートを4本抱えた。
 テストもいくつかあったが、「持ち込み可」のやる気のない講義だったので私は何一つ対策を取らない。私は比較的標準的な大学生だ。
 二週間、彼の部屋に行っていない。
 このまま付き合ってもいいかな、と思っていたけれど、このまま会わないで付き合わないのもいいかな、と最近思い始めた。テストが終ったら合コンしない?という話を由利と浅江がしていたし、「彼氏」が欲しいなら適当に合コンで見つければいいか、と思った。別段欲しいとも思っていなかったが、何かの付属品のように、たまに欲しくなるときがあるので、持っていて不便はないと思う。
 テレビをつければバレンタイン特集だった。何か彼にあげようかな、とも思ったけれど、いちいち会いに行くのも面倒だったのでやめた。作るのも面倒だったし、彼のためにチョコを選ぶ気持ちも起きなかった。

 課題のうちの二つは難なく片付いた。誤字脱字のチェックだけをすると、文章構成はさほど気にしないでファイルに挟んだ。明日の昼に提出しに行こうと思った。
 三つ目はなかなか進まなかった。
 久しぶりに町に行こうかな、と思った。気分転換は重要だ。

 冬物のセールをやっていた。
 あまりお金も持っていなかったので二着だけ買った。
 駅に入ると「絵描き」に会った。
 「絵描き」は少し驚いた表情をした。私も驚いたので、珍しく二人は「共有」したのだといえる。

 「絵描き」の部屋は相変らず町工場にあった。相変らずそこは汚くて、「絵描き」の貧乏も公害のせいではないか、とありえないことを考えた。
 扉を閉めるとすぐに私を抱き寄せた。「絵描き」は手順も変わらなかった。

 「絵描き」がトイレに立つと、私は上半身を少し起こして、窓から外を覗いた。
 町工場の煙突は相変らずだ。
 今日のような曇りの日には煙と雲が区別つかない。
 薬局には体格のいい作業着の男が入っていった。
 少し考えて
 もしも「絵描き」ではなくあの男に抱かれても私はきっと平気だろう
 と思った。
 愛し合う必要が感じられなかった。
 もっとも、「絵描き」を愛しているのかといえばそれも怪しい。

 だがそれでよい。

 「絵描き」はさすがにトイレと風呂にはスケッチブックを持ち込まない。私を抱いている間も決して開かない。
 枕もとで見つけたスケッチブックをめくると、私が描かれていた。それは恐らく、「絵描き」が私を抱いているときに見た「私」であった。
 少し嫌悪感を覚えてスケッチブックを閉じた。
 「絵描き」は戻ってくるともう一度私の体を舐めまわした。正直私は帰りたかったが、帰ったところでいいレポートが書けるというわけでもないのでそのままにした。抱かれながら「絵描き」のことを考えた。
 そういえば私と「絵描き」はこの時間すら「共有」したことがなかった気がする。私はいつも何か考えながら抱かれていた。「絵描き」も恐らく私を目に焼き付けてスケッチブックに描写することを考えながら私を抱いていたのだろう。そしてその絵は枕もとに置かれ、「絵描き」を慰めていたのだろうか。
 だとすれば「絵描き」は私を本気で愛していたのかもしれない。

 彼の部屋に行かなくなって四週間が過ぎた。彼が私の部屋に来ることも少し期待していたが、肩も抱けない彼にそれは無理だとわかっていた。
 当然のように、「絵描き」の部屋にはあれ以来行っていない。「絵描き」が私の部屋に来ることもなかった。
 長崎との遠距離恋愛をしている美咲が、「どうしても会いたい」と言ってテストが終わった直以後に飛行機に乗った。昨夜「会って良かった、泣き言ばっかり言ってごめんね」とだけメールが入った。それから先はメールが来ないから仲良くやっているのだろう。

 歩いて五分さえ億劫になっている私に、美咲が少し羨ましい。

 どうしてこんなに近い距離に住んでいながら四週間の間、こんな偶然がなかったのか、と思ったが、私が出歩かないせいだと気がついた。
 コンビニで彼と会った。
 彼は一瞬戸惑っていたようだった。私は戸惑うというより少し驚いた。
「久しぶり」
 そう言うと
「久しぶり」
 と彼も言った。ボキャブラリの貧困さが彼の戸惑いだと思った。

「どうしてた?」
 と聞くと
「テスト」
 と答えた。
「私も」
 と言うと、
「どこも同じだね」
 と笑った。

 彼は牛乳と食パンをかごに入れた。
 私はそこにヨーグルトを混ぜた。
「あなたの部屋で食べていい?」
 彼はもう一つヨーグルトを入れた。

 コンビニを出ると、私の気が少し変わった。
「やっぱり、うちに来ない?」
 彼は本当に驚いた表情をした。それから頬を赤くした。
「いいの?」
 私も自分で言ったことに驚いたので「共有」だと思っていた。
「いいよ」

 彼と私は少し距離をおいて歩いた。距離といっても一メートルも離れていなかった。でも密接している距離ではなかった。言ってみれば恋人同士の距離ではなかった。少し彼が出してた緊張感も「他人だ」と感じさせた。
 向こうから小学生が走ってきた。細身の子が最初にジャンプをした。着地の瞬間、ランドセルと体が揺れた。次に来た子は「ソルトレーク、一着!」と言った。オリンピックが彼らの中では最も旬の話題らしかった。
 小太りの子がやってきて、ジャンプした。うまくいかなくて転ぶ。驚いて少年を見ると、少年は恥かしそうにして、笑って、「ジャンプ失敗」と言った。
「頑張ってね」
 と言うと、少年は前を走っていた子どもに体当たりをした。照れていた。
 ふっと横を見ると、彼は微笑んでいた。
「あなた、ああいうタイプだったでしょ」
 私がそう言うと、彼はまた少し赤くなった。照れていた。

「彼氏は?」
 部屋に着いてから、彼は呟いた。
「え?」
「彼氏は、いいの?」
 言っていることがわからなかった。
 彼の表情を読もうとしたけれど彼はうつむいて、表情が見えなかった。
「彼氏って?」
 彼の顔が少し上になって、うろたえているような目が見えた。
「…最近来ないから、彼氏が出来たんだと」
 私は少し笑った。
「いないよ」
 彼の目が明るくなった。
「あ、そうなんだ」
 私も少し明るい気分になった。
 それからヨーグルトを食べた。
「これ、ちょっと甘過ぎじゃない?」
 彼が言った。
「そうなの?」
 私が言った。
「ほら、食べて」
 彼が紙スプーンにヨーグルトを乗せて私の口に運んだ。
「甘い」
「そうでしょ?」
 彼は、失敗したな、という表情でヨーグルトをつついた。
「でも私、こういうのも嫌いじゃないわ」
 彼は「ふぅん」と言った。
「きみのはどんな味?」
 私は紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
「あ、おいしい」
 彼は「ついつい口から出た」という風に言葉を発した。
 私はもう一口、紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
 そしてそのまま彼の首に手を回して、私はたしかキスをしていたように思う。

 愛しているとは思っていないけれど、愛していなければキスをしてはいけないわけでもないし、それに、彼がいとおしいような気がしていた。

彼が窓から外を見た
何が見えるの?と聞くと
電柱
と答えた
それから
カレー屋 駅 スーパー ファミレス 大学 マンション
と続けた
私は彼の隣に並んだ
どうして自分の部屋の窓からの景色を私は見たことがなかったのだろう

空も見える
と彼は言った
見れば電線にさえぎられて切れ切れの空があった
鎌倉に行きたいな
と私は言った
春休みはいつが暇?
と彼が聞いた
横浜でもいい
と私は言った
僕はバイトもないし暇だけど
と彼が言った
そして
一泊二日じゃ足りないよね
と言った
最後の週がいいな
と私は言った

彼の手が髪を撫でて、それから肩に回されていることを感じた。
こういうかんじは決して嫌いじゃない。
愛してはいないかもしれないけれど いとおしい。
そう思った。

トモは死んだ

19日午後三時半頃、A県N市にあるアパートの二階で、山口友江さん21歳が、首をつって自殺しているのが発見されました。

「何あれ」
 ユッコは、まるで喉にささった魚の骨を取り出そうとするみたいに言葉を吐いた。
「何だよ。なんでトモ、自殺してんの?」
 ユッコの吐くコトバに、私は笑いたくもないのに笑顔を作って「まったくよね」と言うしかなかった。
 報道を受けて、私は自然にユッコの家に電話をかけていた。
 小学校卒業以来、実におよそ10年ぶりの連絡。中学では、たまに会ったりした程度だった。それも偶発的に。だから、連絡を取るのは、本当に久しぶりだった。その連絡がこんなものになるのは、予想外だったのか。
 それとも、連絡を取るとしたら、やはりこういう時だけだったのかもしれない。
 ユッコのお母さんが、遠慮がちにお茶を持ってきた。私に軽く会釈して、部屋の入り口にお盆を置いて、そそくさと帰る。顔色が悪いのは、どうやら扉の影になっているせいだけではないようだ。
「お母さんと、最近どうなの?」
「冷戦状態ってとこ?攻撃してるのはこっちだけどね」
 ソビエト連邦はとっくの昔になくなって、冷戦なんて小学校卒業するより前に終結したのに、この母子は冷戦を続けている。
 以前来たときと変わっているのはユッコの髪が金色になっていることと、お母さんの髪の毛が白くなっていることか。
「トモってさ…自殺するような子だった?」
 私は、やっぱり喉元にささった小骨を取り出したくて取り出したくて、コトバを出した。
 ユッコはお盆の上のお茶を窓から捨てた。「あんたは飲んでいいよ」そう言い添えるのも、昔と同じ。
「さぁ…」
 お茶が綺麗になくなると、ユッコはベッドに座る。布団から漂う匂いに、オスの人間がこの部屋を頻繁に訪れていることがわかった。
 ユッコ。
「けど、もう十年でしょ?十年あれば、色々あるっしょ」
 さっき「なんで自殺してんの」と言ったのはユッコなのに。
「あたしらだって、この十年、あの子のことなんか何にも知らないでしょ」
 私は頷いた。でも「でも、あの子、いつも楽しそうにしてたじゃない」
 ユッコはベッドに寝転んだ。
 私は手元のお茶を飲む。美味しい。ユッコのお母さんのお茶は、美味しい。
 寝転んだまま、ユッコは布団を被る。埃が舞う。
「十年あれば、人間変わるよ」

 ユッコとトモと私は、小学校の頃、いわゆる「仲良しグループ」だった。
 小学校の頃の「仲良しグループ」なんて、すぐに入れ替わるものだ。 私たちも例外ではなく、クラスが同じ時だけ仲良く集まり、クラスが離れ離れになれば別の子と固まった。
 ユッコは「大体」と言って金髪をかきあげた。髪が、だいぶ痛んでる。
「小学校、3年と、5年の二回だけでしょ?一緒だったのは」
 耳にのぞくピアスに西日が射した。
 その通りだ。
 ユッコと私、とか、トモと私、という組み合わせは他にもあった。でも、三人一緒だったのは、あの二回だけだった。 だけど、その二回こそが私には特別だったのだ。ユッコにだってそれは同じだったと思う。
 だから、私と今こうして会っているんだ。
だって
「…だってそれが、方法だったじゃない」
 ユッコの時間が止まった。
 私の時間も、多分。
 一階のキッチンから、カチャカチャ、お皿を片付ける音が聞こえてくる。
 ユッコは跳ね起きて、扉を開けて、「うるっせぇ!」と階下に叫んだ。
「うるっせぇんだよ、あんた!!!!出、て、け、よ!!!!!」
 と、洗い物の音は止まる。ゆっこの荒い息が残る。その静寂を破るように扉を乱暴に閉めると鍵をかける。それからドアノブを紐で縛った。何重にも。
 小学校の頃は椅子で扉の前を塞ぐだけだった。
 冷戦が進むにつれて核兵器が進化したみたいに、ユッコとユッコのお母さんも、武器を変えていた。
 私は顔を上げた。
「ユッコだって、本当は覚えてるでしょ?」
 ユッコは何も言わない。
「そう、トモはこの十年で何かあったのよ。何か、辛いことがあったのよ」
 ユッコは何も言わない。
「だから、自殺したのよ」
「だったらそれでいいでしょ」
 ユッコは、口の中に入った髪の毛をなめた。
「そうよ。トモは自殺したくなるような目にあったの。だから死んだの、だから首つったの」
「違う、トモは辛いからって自殺するような子じゃなかった」
「はぁ?!あんた、矛盾してるよ?」
 ユッコは、笑った。金髪をかきあげて。
「矛盾じゃないわよ」
「わかんないんだよ。あんた」
 ユッコは、私の湯のみを手にとった。
 窓から、お茶を捨てる。
「あの人のお茶でおかしくなっちゃったんじゃないの?」
 笑いながら。
 ユッコ。
 あなたも本当は覚えてるのよ。忘れていない。わかってるのよ。あなたも。

、、、、、、、、、、、、、
トモは自殺なんてしていない

 一つの確信を持って、私はユッコの、学習机の一番下の引出しを探った。多分、中学校卒業してからは一度もその目的に使われていない学習机。本来の目的を忘れてしまった、忘れ去られた、忘れるふりの顔をした学習机。
「あんた、何してんの」
 ヒステリックな声を、ユッコが出す。「探してるの」
「何もねぇよ!」
 ユッコは私の腕をつかむ。でも、彼女のやつれた腕が、私をとらえることができるはずがない。
 大学のバレー部で、毎日練習してる私と、彼女じゃ違う。
 彼女の腕はすぐにほどかれた。
 それで、そのまま、ベッドに倒れこむ。
 こうやって今までもオスと。
 引出しの中には、キャップを無くしたピンクのシャープペン、卒業証書、夏休みの日誌、単語帳、頭痛薬、リップ、使われていない消しゴム、生理用品、
「そこじゃないよ」
 ユッコは、ベッドの布団をひっくり返した。埃。咳が出る。
「どれくらい干してないの?」
「…中学卒業してから。センセーとヤった記念に」
「有馬先生?」
 私の問いかけにユッコは答えず、布団の下から包みを出した。有馬先生がユッコ。そんな気はしていたけれど。
「これでしょ?探してるの」
 それは、近所のオモチャ屋さんの赤い紙袋に入れられていた。薄さは1センチあるかないか、縦も横も、10センチもない、紙袋。消しゴムのような小さいものを買ったときに使われるものだった。
 ユッコは紙袋をあける。黄色く変色したセロテープは、はがそうとしなくてもはがれた。はがれたというよりも、くずれた。
 その中から、一枚の便箋が出てきた。
 便箋は綺麗なままで。
「これ」
 それは、小学校三年生の頃、私たちが作った、盟約だった。

 私の母は、あの頃地域に根付き始めていた新興宗教に入った。ある日学校から帰ると、母が涙を流して玄関に正座していた。「ミカちゃん今までごめんなさいね」
 母は時折私に手をあげることがあった。それを止めるのは、同居していた母の兄の仕事だった。
 母が謝っているのは、紛れもなくそのことだった。私はなんだか嬉しくなった。あぁ、私は今まで母から罰を受けてきたけど、ようやく許されたのだと思った。
「今までのはね、お母さんの過ちだったの」
 それからあと、母は私にはわからない単語と言葉で、自分の非を訴えた。世界が抹消だとか、彼岸ではなく此岸だとか、救済は終末だとか、だから今までの母は悪であったのだがカンボウ様によって救われたので、これからは世界を良くするために働くのだと。
 母の兄はそれを否定した。私を一緒に入信させようとする母から私を引き離した。
 母は私を諦めて家を出て、その修行場に行ったきりまだ帰ってこない。私のことなんてもう忘れたかもしれない。

 三年生になって初めての席替えで、席が近くなった私とトモとユッコは、始めは何でもない、よくある小学生のグループだった。でも私が、冗談まじりにぽろりと言った「うちのお母さん馬鹿なの」という言葉にユッコは鋭く反応した。
「うちのお母さんも馬鹿なの」
 トモは同調した。「お母さんってきっと皆馬鹿なんだよ」
「違うよ」私は言った。私は大人の会話から、自分の母が周りとは違うと知っていた。
「普通のお母さんはやさしいんだよ。でもうちのお母さんは馬鹿なんだよ」
 本気で言っていた。
 ユッコもトモも、本気の顔で、頬を赤くして興奮した面持ちで、うん、と鼻息荒く頷いていた。

 ユッコが布団を戻した。また埃。
「センセー、すっげ、やさしかった。あたしのお母さんっておかしいの、ってゆうと、でも由子はおかしくないだろ。って言って、胸揉んでくれた。こうやって。由子のおっぱいは綺麗だなぁって言って」
 大事そうに、自分で胸を揉んだ。
 でもどうせ有馬先生はユッコを一回抱いただけなんだ。あんな卑怯な生き物は。
 ユッコは私がいることを忘れているかのように体の感覚にしがみつき始めた。
 ユッコのお母さんは、ユッコに触ったことがないという。
「だからあたし、『愛されない子』なんだって」と、ユッコは大人の言葉を借りて言っていた。「あたしたちって救われない子なのかな」
 宗教にはまった母の所為で「救い」という単語がアタマにインプットされていた私は、呟いた。
 私たちは、お互いの傷口を慰めあうように語らっていた。トモはーー何も言わずに聞いていた。
「ユッコ」
 ユッコはまだ体をなぶっていた。多分有馬先生を反芻していた。今までもこうして?ユッコ。
「ユッコ、トモは、何だったんだろう」
 うぅん、と溜息ともつかない声をユッコは漏らした。私は、戸惑って、でも、ユッコならこの光景はさほど不思議でもない。と、納得もしていた。
「トモは、なんで、私たちのそばにいたんだろう」
 私とユッコには、母親に対する憎悪という共通点があった。でもトモは、何も語らなかった。ただ私たちの言うことを聞き、私たちが許せないと言うものに同調して許せないと言っていた。
 ユッコは、まだ手を止めない。でも、そこに有馬先生の影はなかった。機械的な、肩こりをいたわるような動作にも見えた。
「ミカは、いつやったの」
「ユッコ。私そんなこと聞いてない」
「あたしがミカに聞いてる」
 私は答えなかった。
 ユッコの、手が止まった。
「……そんなこと考えたこともなかった」

 救われない子を救ってくれる神様がいればいいのよ。提案したのは私だった。母の影響は少なからずあった。ユッコもトモも賛同した。
 私たちは救われたがっていた。
 いればいいのよ。は、いつか、絶対いるんだわ。に変わっていた。

「風が吹くと花が咲くんだっけ」
 ユッコは思い出していた。盟約には書いていない、世界を。
「そう。夜になるとしおれるの」
「でもそれだと花が可哀相だから、また朝になると風が吹いて、花が咲くんだ」
 ユッコは乾いた声で笑った。「馬鹿だな、あたしら」
 便箋には盟約と、絵がかかれていた。絵を描いたのは、一番上手だったトモ。トモはあんまり何も言わなかったのに、上手に神様の絵を描いた。
 神様は、ネズミのような恰好をしていた。ネズミは小さくて嫌われ者だけど、知恵が働いて賢いから。私たちのような「救われない子」を救うには、ネズミが良かった。
 本当は私たちは、その「神様」の住む世界の住人なのだった。色々事情があって、この世に来たのだ。その事情を考える時間が楽しかった。私は、その事情をあるときは「向こうでいたずらをしてしまったから来たのだ」と言い、あるときは「お母さんを殺すために来たのだ」と言い、あるときは「こっちで遊びたくなったから来たのだ」と言っていた。ユッコは「お母さんを殺すためにここに来た」と、ずっと言っていた。その目的はいまだ果たされていないようだが。トモも、私と同じように理由をコロコロ変えた。
 色々な理由を作って、この世で受難せねばならないことを自分に言い聞かせた。そして「いつか、神様のいる世界に行こうね」と誓い合っていた。
 小学校五年生で、再び同じクラスになったとき。ユッコが言い出した。
「覚えてる?」
 忘れないようにしよう、と私が言った。
 大人になれば、こどもの頃の気持ちは忘れてしまう—そんな文句をどこかで聞いたことがあった。
 トモは頷いた。
 少女漫画雑誌の付録の便箋を私が持ってきて、ユッコが色ペンで書いた。トモが読み上げた。
 この部屋で。

「私たちは、救われない子どもです。
とてもかわいそうな子どもです。
だけどそれは本当ではなくて、
本当は☆●※◇という世界から来た、
選ばれし民なのです!

私たちは、今は修行ですが、いつか
☆●※◇に戻ります。
それまでに、私たちはこの不こうを
のりこえているでしょう。
そして私たちは、神さまになるのです。

神さま、まっていてね

トモ ユッコ ミカ」

私もユッコも、大満足だった。
自分は実は不幸な娘ではなく、選ばれし民なのだ。と、思うこと。それだけで。

「向こうに行ったっての?」
 疑わしいものを見るように、ユッコは私に言った。
「ユッコだって、向こうに行くための儀式、覚えてるでしょ…」
 ユッコがすくっと立ち上がり、湯のみを、ガチャン、ガチャンと、窓から捨てた。
 最後にお盆を捨てた。
 その音に耐えられなくなったのか、ユッコのお母さんの「ユウちゃん?」と不安げな声が聞こえた。それと殆ど同じくらいでユッコは「黙れっ、て、言ってんだろぉー!」とがなった。「殺すぞ!」とも。

 また静寂が、来た。

「ったく、あの女は…」

 ユッコ。あなたはお母さんを殺さない。
 私には確信があった。
 私もお母さんを殺さない。
 だって、私もユッコも、何度も空想でお母さんを殺しているから。

「向こう」には、簡単には帰ることが出来なかった。だってこの世界での受難は私たちに課せられた使命だったから!

「でも、一つだけ、向こうに行く方法があったよね?ユッコ」
 提案者はあなたよ。
「一番許せない人を、殺すこと」

 同時に声に出していた。

「だったら、余計おかしいでしょ。トモは、自殺したんだよ。人殺ししたわけじゃない」
 その通りだ。
「誰か殺したことを罪に感じてとか?あるわけないでしょ」
 その通りだ。でも「わかるでしょう?ユッコだって」
 私もユッコも母親を憎んでいた。殺したいと思っていた。でも
「本当に憎いのは自分よね?」

 母の兄は言った。私たちのあどけない遊びを悟って。
「ミカちゃん、きみのお母さんはたしかに酷い奴だが、殺したいと思ってはいけない」
 道徳の時間、お父さんお母さんは大切にしましょう、いつもお世話になっていますねありがとうございますといいましょうと教えられた。遠足です、動物園です、お猿の親子がおんぶしてますね、みなさんもああいうふうに仲良しですね、え?仲良しではない?そんなはずはないでしょう。あるとすればそれはあなたが毎日いい子にしていないからですよ。あっちにいるのはカンガルーです、おなかに子供を抱いて可愛がっていますね、え?カンガルーがうらやましい?そんなことはありません、あなたのお母さんもお父さんもみんなあなたを愛していますよ、愛していないとすればそれはあなたがいい子にしていないからですよ。いい子にしていないからですよ。

 ユッコは、胸をまた揉んだ。有馬先生を反芻した。
「センセー…あたしのおっぱいが綺麗だって言った…」
 この子の神様はネズミのように小汚い心を持ったオスだった。
 40過ぎた有馬にとって、15の少女は魅力的だったろう。たった一度抱けるだけで彼は満足だったろう。それ以上を求める勇気はなかったろう。でもユッコは。有馬先生を求めていた。彼女を「綺麗だ」と認めた。彼女のお母さんを「おかしい」と言った有馬先生を。
 あのネズミは、きっとその場の流れだけでそれを言ったのだろうけど。

 私たちがいつも恨んでいたのは、母を愛せない自分自身だった。
 こんな私がいなくなって、別の私になればいいと思っていた。
 そうすればきっと母に愛されて。

「19日、自殺しているのが発見された山口友江さんは、」
 六時のニュースが続報を伝えた。
 たわいない内容だった。職場で彼女は苛めにあっていた とか 両親は別居中 とか そんなたわいのない。
「トモ…楽しそうだったよね」
 ユッコが、有馬先生を反芻しながら呟いた。
 私たちが、「向こうの世界」を考えている時。何も言わなかったけれど、トモは、楽しそうだった。
 楽しそうに、「向こう」の絵を描いた。
 トモは「向こう」に行きたがっていた。
 辛かったから「向こう」に行ったのか?
 …違う気がする。あくまでも「気がする」だけだけど。
「トモ…死んだね」
 ポツリと、ユッコが、言った。

 ドアノブに巻いた紐をほどきながら「ミカ今何やってんの?」と今更ながら聞いた。
 聞かれたくなかったような気もしたけど、どうでもいい気もした。
「不倫」
 ユッコは一瞬時間を止め、
「お母さんのお兄さん?」
と、「確認」した。
「嘘。大学生」
 私の神様も、小汚い動物だ。
 玄関のそばにある和室の襖の隙間から、ユッコのお母さんが見えた。
 息を殺していた。
 ユッコが「黙れ」と言えば黙る。ユッコが「出て行け」と言えば出て行く。
 だけど、ユッコは彼女を殺さない。
 そしてユッコは死なない。
 ギリギリの状態で冷戦を保つ。
 きっといつまでも。
 新しい歴史が新しい冷戦を始めても。
 私もきっと、死なない。
 母を殺さない。
 殺そうにも母はどこにいるのかわからない。ひょっとして、どこかで死んでいるのかもしれない。何とかの教理に従って何かやらかして。
 もしもそうだとしたら、私は少し悔しいのかもしれない。

 トモは、もう「向こう」で神様になっただろうか。

水道橋

 御茶ノ水を過ぎて、私は立ったまま少し外を眺めて、遷ろう景色を望んだ。
 緑に輝いた御茶ノ水から、やがて大きな道路、たくさんの車、むせ返るような人の群れ、高い建造物。
 そして、川。そこにかかる橋。
 
 
 「すいどうばし」
 
 
 ホームにかかげられた駅名を小さく口に出した。
 私が降り立った駅。
 
 
 8月。改札を出れば陽射し。くらりと一瞬眩暈。熱気。日焼け止めクリームをバッグから取り出して、もう一度露出した腕と首に塗りたくる。黒とレースの晴雨兼用折り畳み傘。パッと咲かせて差すと、少しばかり和らぐ太陽。
 
 
  この駅に降り立つのは何年ぶり?

 少しきついサンダルで歩き出す。学生でごった返す道。片隅に置かれた郷愁と、進みたい未来への思いで歩き続ける。
 コツコツコツ、サンダルの音が耳に響く。片隅の郷愁を打ち消さんとするように。 
 私はM大学の文学系大学院事務室へ向かう。

 「す、い、ど、う、ば、し」
 
 滲む汗にも構わずに手をつないだまま私は駅名を読み上げた。同じように汗ばんだ手で、私の手を握り返したサトルの骨ばったゴツゴツとした指。サトルは自分の帽子を私の黒髪の上に乗せると、きゅっと強く引っ張って改札口へ向かった。
 
  切符ある?
  あるよぉ
  行くよ
  ねぇどっちに行くの
  どっちがいい?
 
 改札を抜けて、一度離れた掌をもう一度つなぎ、サトルは私を引っ張った。
 
  暑いなあ
  汗くさいよ
 
 そう言いながら私はサトルの汗の臭いをかいだ。ランニングシャツからはみ出したサトルの鍛えられた腕は汗でべたついていたけれど、私は肩を寄せた。じんわりサトルの汗と私の汗が交わった。なんだかそれが嬉しくて、わけもわからず「どっち?どっち?」とはしゃいで歩いた。
 
 
 
 「失礼します」
 事務室に入ると、すぐに若い女性職員がやってきた。
 「はい」
 「文学研究科の大学院入試要綱と過去の問題集を頂きたいのですが」
 「2つあわせまして800円になります」
 「はい」
 スムーズに進む事柄。既に何部も用意されている要綱と問題集を取り出すのと私が財布から800円を取り出すのはほとんど同じスピード。冷房の効いた事務室はさきほどまでの汗を冷やす。ねっとりとした日焼け止めクリームが鬱陶しく感じられる。どの教室も冷房は効いているのだろうか。私大だからきっと効いてるんだろうな。そんなことを考えながら「ありがとうございました」と頭を下げて「失礼しました」と事務室を出る。
 エレベーターで1Fまで降りれば、あの頃のサトルのような、青臭さを秘めた若者が何人も学部の事務室に寄っている。入試の過去問を買いに来る高校生たち。
 
 
 あの中の何人が オチテ
 何人がウカル のだろう
 
 
 高く近代的な校舎を見上げて、私はもう一度駅へと向かう。長居の必要はこれっぽっちもなかった。
 今更観光気分は出ない。一刻も早く過去問に目を通した方が得策。
 
 
 
 サトルはオチタ。
 2年受けて、2年オチタ。
 2年目にはひたすら苛立ってた。
 
 そんなにイライラしてたら勉強はかどらないでしょう
 
 言いたい言葉を飲み込んで、私は隣で自分の受験勉強を進めた。
 いつのまにか煙草を吸い始めたサトルは、図書館でよく「一服」と言って席を立ち、喫煙所に行って30分は帰ってこなかった。ひきとめようとする私に、サトルは「コジンノジユウ」という言葉を投げた。
 
 サトルと同じ大学を受けるわけでもなかったけれど近い大学を受けようと思ってた。
 けれど、図書館の隣の席で勉強すればするほど、サトルと私は遠のいていった。
 
 
 
 3月、私が入学金を郵便局で為替に変えている頃。
 サトルは母校の窓を割っていた。
 卒業式に流した涙は母校のためではなく、もう出会うこともないだろうサトルのためだった。
 
 
 
 駅に入る、再び熱気、電車を待つ、じんわりにじみ出てくる汗、ハンカチを取り出す。
 脇に抱えたバッグの中の入試要綱と問題集を気にしながら、私は空を見上げてつぶやいた。
 
 
 「す い ど う ば し」
 
 
 あの頃サトルが目指した大学の大学院を狙っていることに、学術的興味以外の理由は何ひとつなかった。
 サトルがどうなったのか、私はもう知らない。
 サトルもきっと、私の行方を知らない。
 
 
 フリマで買った300円の帽子を深くかぶって、ハンカチで額の汗を拭いて、バッグの中から取り出したメイク道具で簡単に化粧直し。
 バッグの中の携帯電話が振動して、着信を告げていた。
 発信者名を見る、「ヒロシ」。
 通話ボタンを押す、「終わった?」「うん、終わった」「迎え行こうか?」「もう駅だし」「なら部屋で待ってるし」「冷房つけといて」「電気代高っ」「扇風機でいいよ」「冷房ですね、カシコマッタ」「あ、電車来る」「なら切るし」「うん」「冷房ですね」「ヨロシクドウゾ」、終話ボタン。ホームの白線内側に立つ。電車が止まる。「水道橋」とアナウンス。
 電車の中はひんやり冷えて、私はバッグからカーディガンを取り出し羽織る。
 電車が動き始める。
 
 
 ホームの「水道橋」の文字はやがて、電車の速度に消されて見えなくなった。

寒椿

かみさまなんていなひのだとゆうたのは、あなたでしたね。
 
 
 今年もつばきが寒々と咲いております。
 雪をかむつて、しらがのおばばのやふになつております。
 しらがのばばの、あかいおべべ。
 かみさまなんていなひのだとゆうたのは、あなたでしたね。
 あら、ずいぶん遠ひ頃のことをおもひおこしてしまいました。
 
 
 かんつばきが咲くのは、春のためだとゆうたのはおばばでしたね。
 花は、散るがために咲くのだとゆうてましたね。
 散る花は、あらたしきいのちのうまれをよろこぶのだと、ゆうてましたね。
 そのために、かんつばきは、はらり、はらり、すこしずつ散るのだと。
 そうゆいながらあかいおべべのおばばが散ったのはいつであったことでせう。
 
 
 しらがのばばは、あかいべべ着て、白い白い、雪の底へと散ってゆきましたね。
 谷底をまつさらにそめる白い雪の上に、散ってゆくおばばのあかいべべが、どさりと、春のつばきのやふにおちましたね。
 春のつばきは、首をぼとりと落とします。
 
 ばばをほおったあなたのほほもあかく染まり、だいぶん白い雪げしきに映えていましたよ。
 ばばをほおったあなたのめめもあかくなり、あなたはゆうたのでしたね。
 
 
 かみさまなんていなひのだと。
 
 
 ぼたり、ぼたり、雪の上に咲いたあかいあかい血をわたしはわすれていませんよ。
 それは少しずつ散る冬のつばきのやふでした。
 かみさまなんていなひとゆうたあなたは、ばばをほおった次の日に、谷底に身を捨てました。
 あなたのからだはやぶ枝にささり、ぼとり、ぼとり、谷底にいくつものあかい花びらをさかせましたね。
 
 
 今年もつばきは寒々と咲いております。
 わたしのところでは、おとこがおらずとも、なんとかなっておりますよ。
 あの春うまれたややが今ではあいらしい娘になりました。
 ややは村のみんなからこのまれました。
 そして、わたしの頭はしらがにかわりました。
 
 
 こよい、娘がわたしにあかいべべを着せてくれます。
 娘のむこどのが、わたしをせおってくれるのです。
 娘のおなかには春ごろうまれるややがおります。
 むこどのにはおねがいしておきませう。
 
 
 かみさまはいますよ。
 かみさまはいて、そうしてあらたしきいのちをさずけるのですよ。
 だから、むこどのは、あなたのやふに身を投げないやふに。
 むこどのは、わたしを谷底に散らすことで、あらたしきいのちをはぐくむのですから。
 
 
 散る花は、あらたしきいのちのうまれをよろこぶのですから。
 
 
 こよい、わたしはあなたのもとへゆきますね。

伸吾の春

伸吾の町は、梅が咲く。
それで有名、というわけではないけれど、美しいものだ。
伸吾はこの季節になると毎朝、散歩が楽しみになる。
雨の日でも、散歩に出るのを厭わない。
春は、雨がしとしとと降るのも風流だ。
おじいさんに連れられて、伸吾はてくてく歩く。
おじいさんの足取りは年々ゆっくりになっていくようだ。
もちろん伸吾も年の取り方では負けてはいないから、伸吾も年々足が弱っていく。
ご近所のおばちゃんが言う。
「伸吾ちゃんも年取ったわね。もう、何年?」
おじいさんが言う。
「そうさな、もう、10年近いかな。こいつもそろそろダメだろう」
おばちゃんは言う。
「あらあら・・・伸吾ちゃんいなくなったら、吉本さん寂しいわね」
おじいさんは何も言わずに会釈する。
それはおじいさんが年々感じる不安材料の一つだからである。

おじいさんが伸吾を拾ったのは、10年前だった。まだ生まれて数ヶ月だった伸吾を拾ったのは、こんな理由からだった。
「犬の寿命は10年くらいだという。俺もどうせあと10年くらいのものだろう。だったら死の床瀬まで、こいつと二人、暮らしてみるのも良いだろう」
だけどおじいさんは、10年前に思っていたよりも丈夫なお年寄りだった。そして伸吾は、きちんときちんと、年を取っていく。
俺もまだまだ死ねないよ。
クゥン。と、伸吾はおじいさんに言ってみる。おじいさんは伸吾の頭を撫でる。
しわくちゃの、ざらざらした手。
伸吾はその手をぺろり、と舐めた。

今日は雨。
おじいさんはいつも通り早起きをして、雨戸を開けて、呟いた。
「雨か」
伸吾は外からおじいさんにしっぽを振った。
「うん、おはよう、伸吾」
おじいさんは伸吾に手を振った。
伸吾は、おじいさんの手が伸吾のしっぽと似ていることを知っていた。
それはおじいさんが気持ちを伝える方法だった。
おじいさんは、一枚セーターを着た。
年寄りには雨はこたえる、と呟いた。
それからいつも通り、おばあさんに線香を焚く。
伸吾の小屋にも、その薫りが届いた。
庭の梅のにおいと、交わる。
雨はしとしとと降る。
伸吾は、ここ数年、足の裏が雨に濡れることも気にしなくなった。
はじめて雨の日に散歩に出た時は、足の裏が濡れるのに違和感を感じて、跳ねてみたり、早歩きをしてみたり、したものだが。
おじいさんは、大きな黒いこうもり傘をさして歩く。
伸吾は虎縞柄の散歩紐に引っ張られて、少しだけ、傘の恩恵を受けて歩く。
おじいさんは時々立ち止まる。
そして伸吾が傘の中に入ることを確認する。
伸吾が傘の中に入ると、また歩き出す。

アスファルトの道がしばらくは続く。
濡れたアスファルトは、いつもに増して冷やっこい。
小さな広場。
晴れた日曜日の朝ならば、近所の子供たちが遊んでいる。
そしておとなしい伸吾は、子供たちに触られる。
伸吾は子供が嫌いではない。
けれど、耳を引っ張る子やしっぽをぎゅっとつかむ子がいると、ちょっと嫌な気分になる。
おじいさんがすぐに叱ってくれるけれど。
でも、今日は雨降り。
広場もしっとり落ち着いている。
大きな池。
池の周りの遊歩道はアスファルトに舗装されている。
鯉が一瞬、姿を見せる。
そして水面に波紋を作る。
鯉の波紋は、雨がつくる波紋と同じになる。
雨は、川のせせらぎのような微かな音をさせて、池に降る。
池は、曇った空と同じ色。
おじいさんは、毎日いる釣り人に声をかける。
「おはようございます」
釣り人はおじいさんに言う。「おはようございます」
そして伸吾に言う。「伸吾くん、おはよう」
「雨の日も、大変ですね」
おじいさんは、雨の日の度、彼に言う。少し呆れている。
その度に、釣り人は、少しきまりの悪そうな顔をして言う。
「やめたいんですけどね」
「伸吾くん、お前が散歩に行くみたいに、俺は釣りをやめられないんだよ」
彼はおじいさんではなく伸吾に言うのであった。
遊歩道をちょっとはずれると、広い公園だ。
アスファルトがなくなって、梅がいっぱい咲いている。
雨を含んだ土は柔らかくなっている。
歩けばちゅっちゅっと音が鳴り、ほんの少し、体は土に食い込む。
伸吾はそれが大好きだ。
梅の木の立ち乱れる中に、ひとつ、屋根のある小さな休憩所がある。
木製の、ベンチと、「テーブル」というにはお粗末すぎる「テーブル」。
どこぞの悪たれがした落書き。
おじいさんはその内容の卑劣さや猥褻さに顔をしかめてから、見なかったふりをする。
そして一服。
タバコを吸う。
ふー・・・
煙が雨に湿っていく。
伸吾は、濡れた体を一生懸命舐めながら、煙をひょいと見た。
雲みたいだ。
空に上って、梅の薫りと一瞬交わって雨に消える煙は、雲のようだった。

「こんな日だったか」
おじいさんが、誰に言うでもなく呟いた。
「春恵がうちに来たのは」
伸吾は「春恵」を知らない。
それは、時々おじいさんやおじいさんの友達との間に出てくる名前である。
「春恵」は、伸吾が家に来る前に亡くなったという、おばあさんであった。
「雨が降っていて・・・梅が咲いていて・・・俺はタバコを吸っていた」
伸吾は、おじいさんの足下で体を丸めた。
おじいさんは、伸吾を、ちょいっと見た。
それから、今度は伸吾に話した。
「見合いの席だってのに、いつまでたっても相手が来ない。うちの親父はかんかんに怒るし、俺は「逃げられた」と思って落ち込んでいたよ。俺は、お世辞にも色男とは言えない器量だったからな。
外を見ると、梅が雨に濡れていて。
俺は思ったよ。
梅は俺の代わりに泣いているんだな、と。
女々しいと言われようが、俺はそんなことを考えた。
タバコを吸って、気を紛らわそうとした。
ところが、二時間たって春恵は現れた」
ごめんなさい、雨で道がぬかるんでいて。
「そう言う春恵の頭に、梅の花が落ちていた。
俺は、遅刻された腹いせも手伝って、意地悪くこう言った」
頭に、梅の花、ついていますよ。
「俺がそう言うと、春恵は頭を触って、梅をとって「あら、本当」と笑った」
あたし、春恵なんて名前ですもの。春がついてきちゃったんだわ。
「ガラス玉を転がすような笑い声だった。
俺は、それを聞いてもう、おかしくなってしまった」
では、僕にも春をくださいな。

おじいさんは、小さく笑った。
頬が桜色に染まっている。
伸吾はしっぽを振った。
おじいさんは、おばあさんが本当に好きだったんだね。
タバコが小さくなって、おじいさんは火を消した。
伸吾は鼻をひくつかせる。
おじいさんの薫りはタバコのにおい。そして次に、梅の薫りと、雨の薫り。
おじいさんには今も春恵さんがいる。

おじいさんは立ち上がった。
「さあ、帰ろう」
伸吾も立ち上がった。
おじいさんと伸吾は、来たときよりもゆっくり、歩く。
こうして、ゆっくり年を取っていく。
小さな休憩所を出ると、雨がやみ始めていた。
梅の花は今が満開。
つぼみをつけた桜の木が、本格的な春を迎えようと準備している。


*初めて「ホームページ」を作った時に載せた作品です。色々悩んでいた頃のもので、とても思い出深いです(2010.7.29)

朽ちる私

 若返りの薬をもらった。
 母に半分あげたら、最初の半月は毎日1錠ずつ飲んでいたけれど、元来三日坊主なので途中で飲まなくなり、やがて消費期限が切れた。
けれど目元のシワは消えていた。
 私に薬をくれた隣のおばさんはいつの間にかお姉さんになってしまい、若い男と恋に落ち、出ていってしまった。
 なぜ旦那さんと分け合わなかったのだろう。
 私は今23なので、毎日飲めばいずれ赤ん坊になるんだろう。しかしそんなに若返るつもりもないので一週間だけ飲んでみた。あまり効果は実感できなかったが、なんとなく冒険心が蘇ってきた。
 冒険心にまかせて一人旅に出た。18切符の気ままな旅だ。冒険心のままに行動したので、休暇届を出し忘れた。私はクビになるだろう。
まずは海に行った。地元の男と知り合い岩陰で体を重ねた。男は自分を留蔵と名乗った。きっと若返りの薬を何ヶ月か飲んだのだ。
 次は町に行った。アダルトビデオにスカウトされた。女子高生の恰好で出演しろという。私はそこで三日働き、大金をもらった。地道な会社勤めは馬鹿らしいものだと感じた。
 次に田舎に行った。たんぼばかりがあった。たんぼで働いているのは皆若者だった。田舎の人の親切に甘え、三軒の家にそれぞれ三日ほど泊めてもらった。ど の家にも若返りの薬がケースで置いてあった。そしてどの家にも赤ん坊がいた。日本の農家はたくましい、と思った。
田舎を出てから山に行った。奥に進むにつれて人間が減った。疲れたので途中の山小屋で休んだ。そこで出会った青年と私は恋をした。片時も離れたくないと思った。
 三年ほど彼と暮らした。三年のうちに子供が二人出来た。そしてこのまま生計を立てていけるかと悩み、彼は私に、ここで小さなペンションを始めようと提案した。私もそれは素敵だと思い、賛成した。
 ところが、ペンションを経営するための話し合いをするうち、許可がいるんじゃないかしら、とか、電気やガスの工事を頼まなくちゃ、とか、その資金はどうするの、と、私と彼は幾度も喧嘩を繰り返した。二人の子供はオドオドしていた。
 結局、ペンションは現実的でないという結論に落ち着き、私たちは町に下った。
 若返りの薬を使用したため再就職する例は珍しいものでもないらしく、私も彼も就職をした。子供は保育園に通った。  
 数年経ったある日、彼が若返りの薬を買ってきた。一緒に飲まないか、と言われたが、若返ったら子供の世話を忘れちゃうわよ、と、おばさんの笑い方で笑い、でもちょびっとだけもらうわ、と言って三日間飲んだ。肩凝りが少し良くなった気がした。
 彼は日に日に若返り、やがて上の子供が中学校に入る頃、家を出て行った。お前が母親のように思える、愛せない、そう言い残して。
 やがて子供たちも家を出て行った。若返りの薬を飲んだわけではなく、そういう年齢になったから出て行ったのだ。
 私はたまに若返りの薬を隣の奥さんに分けてもらって肩凝りや腰痛を治していたが、年を取るとそれすら面倒になった。
 山で過ごした年月を懐かしいと思った。
 母の墓参りを済ませ、子供たちに手紙を託して山に登った。かつて軽々と歩いた道は険しく、私は何度も休んだ。
 いつのまにか朽ち果てていた山小屋に辿り着いたのは家を出て二日経ってのことだった。老いた体に野宿は厳しかった。
 かつて彼と愛し合ったベッドは既に腐っていた。けれど、この老いたからだを休ませるには充分だった。
 私は腐り切ったベッドに横たわり、静かに目を閉じた。二日かけての山登りに疲れた体はもう動かなかった。ふと、海の留蔵を思い出した。上の子供はもしか して留蔵の子供だったかもしれないなあ、と思うと少し可笑しかった。朽ちた山小屋にはあちこちから冷たい風が吹き込んだ。やがて寒さも空腹も忘れた頃、私 は山小屋の中で朽ち果てた。
 腐ったベッドを腐った私の重みが壊した。
 私とベッドはいつしかひとつになり、キノコや雑草が生えて来た。
 風雨の中で山小屋も崩れ、私とベッドを押し潰した。
 その隙間からいろんな植物が背を伸ばした。
 朽ちた私はやがて、青々とした山の部品になった。

K a i

 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
  空はすべてをつないでる。
       **********
 (壊れる)
 衝動が胸を打つ。圧力をもって為される、回転。うねり。
 (どこから)
 飛行機が青空を走る。白いひとつの尾をひきずりながら。ぐらり、天地がゆらぐ。一周しているようだ。温度差が生み出す圧力、ぶつかりあい、乱れる秩序。生態系は狂う?
 (見えなくなる)
 いや聞こえなくなる。におわなくなる。すべて五感がうばわれゆく。ただ、この流れは変わらず打ち続ける。大小あれど、変わらない、外圧に負けずここにいる。だいぶん近くにあるよう。まるで臓器のよう。そして――――
 「……!」
 ああ、
 「…マ!」
 叫びのように、つんざくものは、
 「ママ!」
 まるで、我が子――――
       **********
 「割れた」
 机に散ったグラスの破片を見つめてサツキが言った。そしてか細い指で、拾い始める。破片はキラキラ、部屋の照明を受けて壁に光を返す。ちっぽけで狭いこの部屋に。太陽と、太陽を中心に公転する惑星たちがあるようだ。
 「いたい」
 サツキは言って、右の人差し指を見た。こぼれた褐色のコーヒーの中にポタリと血が落ちる。ガラスで切ったのか。サツキはそのまま破片を拾い続ける。指からしたたる赤い血は降り始めの雨のごとく。褐色ににじむ赤色はまるであの日の景色のごとく。
 
 大体10年くらい前になる。地球は大変動を起こした。プレートは滑り込み、核で蠢くマグマが地表に流出した。警報は前々から出されており、主に先進国政 府による「救済政府」も準備されていた。僕は変動の起きる前日にシェルターに入った。シェルターには毎日、人工衛星がとらえた地球の大変動の映像が送られ てきた。その景色、この星の終末を告げるようだった。各地で起きる火山噴火が空を赤錆にした。赤錆の空は赤い雨を降らせた。誰かが言った「まるでノアの箱 舟だ」。
 シェルターにも地球の振動は伝わってきた。やがて水が浸透し始めた。その日以来、誰もが長靴を履くようになった。
 地表に出られるようになるまでに、3年がかかった。それまでに多くの人がシェルターの中で気狂いになって死んだ。
 地表に出て久しぶりに見た世界は、赤茶にぬかるんだ大地。崩れた高層建造物。行き場を失くした魚たちが最後のエラ呼吸で息を引き取る。空は赤から、そし てピンクへ。3年前と同じ星とは思えなかった。しかし「救済政府」がかねてから準備していた装置や備蓄によって世界は復興に乗り出した。復興は、水浸しの 地面を歩くのに適した靴を生き残った人々に配布することと、食料を配給することから始まった。続けて行方不明者の捜索が行われた。
 人間とは、実にタフな生き物だ。ひとときその価値を失っていた貨幣はたちまち息を吹き返し、当初は申請許可が必要であった就労及び商売は取締りが追いつかないほど蔓延。当時14歳であった僕もアルバイトを始めた。
 お金があれば、配給される分よりずっと上質でたくさんの食料が手に入った。
 同時に僕は受験勉強を始め、救済政府の指示によって各国に作られた国営学校へ入学した。国営学校の大学部まで卒業すれば、復興の暁に官職に就けることが 約束されていた。何十という倍率の中合格した僕は、その時になってようやく捜索願を出した。母の捜索願だ。その、捜索願届を出すときに、サツキと出会っ た。
 サツキは、救済政府による初期行方不明者捜索活動で発見された身元のわからない少女だった。僕は彼女を――
 「妹です」
 僕は彼女を引き取った。戸籍情報は紛失していた。誰でも「家族です」と言えば家族として認定された。当然のようにそれを利用した人身売買もあったが、僕がサツキをひきとったのはそういう目的ではなかった。
 似ていたのだ。あの日の母に。
 「たしかに、兄です」
 サツキは僕の嘘を受入れた。そして書類上、僕らは兄妹となった。
 国営学校が用意した寮で僕とサツキは暮らし始めた。僕らは兄妹だから、恋愛感情を抱いたりすることはなかった。そして、ない。現在もなお。
 サツキは自分のことをほとんど語らない。僕もまた。
 母の捜索状況は定期的にメールで届けられた。
 <発見されませんでした>
 そして僕はいつも続けて捜索願届を出した。
 本当は、わかっているけども。
       **********
 浄水器を通した水で指を洗い、軽くガーゼをあてた。ガーゼはすぐ赤く染まる。
 「まだ痛い?」
 「いえ」
 サツキは簡単に答え、箒と塵取で破片を集め、引き出しに入れた。彼女に与えられた机には、そんなガラクタばかりが入っていた。ガラスの破片。石。貝殻。
 「回収に来ました」
 毎日やって来るゴミ回収を生業としている男は、僕からビニール袋を受け取り「お代を」と左手を差し出す。サツキが段ボールを渡す。段ボールの中にはサツキが描いた絵画らが入っている。妹は、絵で生計を立てていた。
 彼女は絵を。僕は勉強を。
 狭い部屋で、黙々と。会話もほとんどなしに生活している。生きている。
 窓からこぼれる光はやたらピンクだ。ここ数ヶ月でその色合いはますます鮮やかになったようだ。携帯電話に配信されるニュースではこの現象について各界の学者らが各々意見を提出し、解決しようとしている。
 ばかげている。
 地球も、太陽も人間も。X=、で表現できるものではないのに。そう考えつつ、X=12という解を僕は問題集に筆記する。
 あまりにばかげた世の中なのに。だから。
 ばかげた解が、崩れた貝と、等しく価値をもっている。
       **********
 大学部に合格した日、僕は雨漏りや浸水のない高層にある寮へと移ることになった。あの日から何年も経ち、地上で新しい生活を始めてから幾年も経ったというのに、未だにこの惑星が起こした現象の謎は解けていない。
 妹を誘って高層部に行こうとしたが、サツキは首を横に振った。うっすら赤い雨が降りしきる日。いつもより水かさは増し、僕らの部屋も水浸しになっていた。
 サツキは描き溜めた絵を僕に渡した。そうして、引き出しの中にあるガラクタたちをその手ですくうと、頭から被った。
 ガラスの破片が。石が。サツキにぶつかり、突き刺さり、サツキの体は赤く雨を降らして
 「あの頃に戻りたい」
 そのまま、部屋を出て行き、それっきり――。
 僕は残されたサツキの机の引き出しを覗いた。キラキラ、破片は黙しつつ語っているよう。そして、サツキが残したものは。
 貝。
 いくつもの貝。
 口をつむいで、時に砂を吐く様に言葉を発する、サツキは、まさしく貝だった。
 
 高層の部屋に移った僕は窓を開け、赤みがかった雨を頭に受けながら、外を見た。
 いつかシェルターで耳にした言葉「ノアの箱舟」。選りすぐられた人間だけが高層の部屋から「下界」を見ることが出来る。雨の降る日、ピンク色の濁流が巻き起こり、また行方不明者が出る。サツキもあの濁流に。
 けれどきっとサツキは見つからない。赤い血を流し、ピンク色の濁流にその身を任せ、サツキは貝になる。
 
 僕は、長年出し続けた母の捜索願を、その日、打ち切った。
       **********
 警報の出されたあの日、空は驚くほど青かった。シェルターに人々が詰めかけた。僕も母に手をとられ、シェルターに向かって歩いていた。その道すがら。母は青い空を見て
 「懐かしい色」
 そう言うと、青い、青い、空の中へと飛び込んだ。
 空は本当に青かった。ずいぶん青かった。けれど大気は荒れていた。だいぶん荒れていた。飛び込んでいった母は、まるで狂ったトビウオのように、青の中で姿を現したり、また見えなくなったり、飛び上がったり――
 「ママ!」
 僕の叫びを母は耳にしただろうか。
 「ママ!」
 遠のく景色に母は何を思っていたのだろうか。僕は周りの大人に小さな体を抑えられ、そして引っ張られるようにしてシェルターに続く道へ。母は離れていったけれど――
 
 あの頃に戻りたい、と、サツキは。
 懐かしい色、と、母は。
 
 僕は再び「下界」を眺めた。溺れる人々。魚のよう。見えなくなった人々。貝。
 
 窓を閉め、僕はサツキに渡された絵画を1枚1枚、見た。
  真っ青な景色。
  魚のように人々。
  もの言わぬ貝。
  ピンク色に染め上げられた景色。
  魚となった人々。
  もの言わぬ貝。
 僕は再び窓を開け――
       **********
 (壊れた)
 衝撃が胸を打つ。圧力、うねる。
 (ここだったのか)
 ピンク色の空を、白いひとつの尾をひきずりながら飛行機が走った。正されようとした秩序。生命は、狂う。
 (見たかったものは)
 きこえてくる。におってくる。すべて五感が戻ってくる。ずいぶん、ずいぶん僕は遠くへ来たのだが、ずいぶん、だいぶん僕は近くになったのだ。
 遠く、つんざくように
 「…われた!」
 あの声は、ああ、
 「まるでダメだ」
 もう、
 「見込みはない」
 いや、ちがう。脈打っているものを知らないか。僕は臓器になったこと。
 「まだいた?」
 「いいえ、もう」
 見えないんだろう。僕のこと。
 ここは青い。ずいぶん青い。青い中で泳ぐ僕を、いつか見つけるんだろう。母も―――妹も。
**********
 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あれは何?」
 「トビウオ」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あれはなぜ?」
 「景色を見るため」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
 「ここはどこ?」
 「答だよ」
  すべてをつなぐ、答だよ。

砂の町

 川沿いを除いたほかは、もうすっかり砂になっている。
 町を彩る草木は消えた。
 僅かに水脈を作る隣の川辺に、申し訳程度に点々と緑が伸びる。だがその緑も、太陽に焦がされて先端の色を変えている。
 この町は今、枯れる手前。
 男は、川に架かる橋を管理している。ずいぶんたくさんの人が、草木を求めて橋を渡って行った。中には、もうこの川に橋は必要ないのだからと川縁に降りて川に沿って歩いていく若者の群もあった。
 町には、老人ばかりが残った。
 男も、冬が過ぎたらこの橋を離れて旅に出よう、と思う。
 この町は今、なくなる手前だ。
 男は、男の父親の家を訪ねた。そして、自分がいなくなったら橋の管理を頼めないか、と訊いた。父親は了解した。
 樹木を失った町に、風は厳しく吹き付け、家々はきしんだ。橋もうめいた。この町を守るものは、どこにもなかった。
 男は橋を支える柱を強化するため、寒さを堪えて外に出た。川辺の草たちは風にふるえていたが、色を失いもせず、地中に根を深く這わせていた。
 冬が過ぎた。
 男は町を出て行った。
 男の父親は男に代わり、毎日橋を見守った。壊れそうな時はほかの老人も誘って直した。
 老人たちには、町を出る体力がなかった。町を出た子供たちが帰ることもなかった。しかし橋は守られた。
 やがて老人たちは飢えと年月に枯れ、死んでいった。骸は細く折れそうな数本の腕に運ばれ、砂に埋められた。
 いよいよ最後の一人となった彼も、もう死期が近いのを感じていた。彼の亡骸を運ぶ腕腕はもうない。川沿いに彼はひとり歩いた。川はもう、その力を殆ど 失っていた。それでも、歩き続ければ、まだ水が流々とする部分があった。彼はそこに身を投げた。軽く、木の葉のようになった体は、岩場に留まり、ただ冷た さに迎えられた。そうして、最後の町人は、消えた。
 それから何年も経った。
 何十年、何百年と経った。
 砂は風に吹かれて少しずつ移動した。
 川は砂に埋もれたが、川もまた少しずつ移動した。
 雨が降った。
 太陽が照った。
 雪が降るときもあった。
 いつしか町は、草木が萌える町に変わった。
 風は砂を運ぶだけでなく、遠くから栄養や草木の種子も運んでいたのだ。
 その中でもひときわ多い種は川辺にある。これはこの地が砂に埋もれる前からあった草だった。深く根を張った彼等は、焦がれ、凍えながら、長い年月をかけて生き延び、種を増やし続けたのだ。
 あるとき旅人がこの地に訪れた。彼は、かつてここにいた人々とはまるで違う服を着て、この地が初めて受け入れる乗り物に乗ってやってきた。
 旅人の後にはたくさんの人がやってきた。
 町はあっという間に作られた。
 ひとりの新しい町人が、川のないところに橋の柱の名残を見つけて笑った。
 それを聞いた別の町人が、いろんな機械を使って地中を調べ始めた。
 冒険心と好奇心に溢れた少年は、自分の家より少し離れたところに湖を見つけた。
 そうして新しい町は、町が歴史を持っていることを発見した。
 ある男は思い出した。自分の先祖は砂から逃れて彼地へ行ったのだ。そしてこの男もまた、砂から逃れて此の地へ来たのだった。
 湖の底の泥の中から古い骸が見つかった。
 偉い学者によれば老人の死体だという。死因まではわからなかった。なぜ湖にあるのかもわからなかった。とにかく、古い町の老人だろう、というところで落ち着いた。死体の骨は薬品を施され、重要歴史文化財として博物館の地下に保存された。
 男は、かつて住んでいた砂の町に残してきた両親を思った。
 いつかあの町にも草木が戻るのだろうか。そしていつかあの町の跡が、このように見つかるのだろうか。
 そうだと良い、と男は思って、川に架かる橋の見張りに出かけるのだった。