伸吾の春

伸吾の町は、梅が咲く。
それで有名、というわけではないけれど、美しいものだ。
伸吾はこの季節になると毎朝、散歩が楽しみになる。
雨の日でも、散歩に出るのを厭わない。
春は、雨がしとしとと降るのも風流だ。
おじいさんに連れられて、伸吾はてくてく歩く。
おじいさんの足取りは年々ゆっくりになっていくようだ。
もちろん伸吾も年の取り方では負けてはいないから、伸吾も年々足が弱っていく。
ご近所のおばちゃんが言う。
「伸吾ちゃんも年取ったわね。もう、何年?」
おじいさんが言う。
「そうさな、もう、10年近いかな。こいつもそろそろダメだろう」
おばちゃんは言う。
「あらあら・・・伸吾ちゃんいなくなったら、吉本さん寂しいわね」
おじいさんは何も言わずに会釈する。
それはおじいさんが年々感じる不安材料の一つだからである。

おじいさんが伸吾を拾ったのは、10年前だった。まだ生まれて数ヶ月だった伸吾を拾ったのは、こんな理由からだった。
「犬の寿命は10年くらいだという。俺もどうせあと10年くらいのものだろう。だったら死の床瀬まで、こいつと二人、暮らしてみるのも良いだろう」
だけどおじいさんは、10年前に思っていたよりも丈夫なお年寄りだった。そして伸吾は、きちんときちんと、年を取っていく。
俺もまだまだ死ねないよ。
クゥン。と、伸吾はおじいさんに言ってみる。おじいさんは伸吾の頭を撫でる。
しわくちゃの、ざらざらした手。
伸吾はその手をぺろり、と舐めた。

今日は雨。
おじいさんはいつも通り早起きをして、雨戸を開けて、呟いた。
「雨か」
伸吾は外からおじいさんにしっぽを振った。
「うん、おはよう、伸吾」
おじいさんは伸吾に手を振った。
伸吾は、おじいさんの手が伸吾のしっぽと似ていることを知っていた。
それはおじいさんが気持ちを伝える方法だった。
おじいさんは、一枚セーターを着た。
年寄りには雨はこたえる、と呟いた。
それからいつも通り、おばあさんに線香を焚く。
伸吾の小屋にも、その薫りが届いた。
庭の梅のにおいと、交わる。
雨はしとしとと降る。
伸吾は、ここ数年、足の裏が雨に濡れることも気にしなくなった。
はじめて雨の日に散歩に出た時は、足の裏が濡れるのに違和感を感じて、跳ねてみたり、早歩きをしてみたり、したものだが。
おじいさんは、大きな黒いこうもり傘をさして歩く。
伸吾は虎縞柄の散歩紐に引っ張られて、少しだけ、傘の恩恵を受けて歩く。
おじいさんは時々立ち止まる。
そして伸吾が傘の中に入ることを確認する。
伸吾が傘の中に入ると、また歩き出す。

アスファルトの道がしばらくは続く。
濡れたアスファルトは、いつもに増して冷やっこい。
小さな広場。
晴れた日曜日の朝ならば、近所の子供たちが遊んでいる。
そしておとなしい伸吾は、子供たちに触られる。
伸吾は子供が嫌いではない。
けれど、耳を引っ張る子やしっぽをぎゅっとつかむ子がいると、ちょっと嫌な気分になる。
おじいさんがすぐに叱ってくれるけれど。
でも、今日は雨降り。
広場もしっとり落ち着いている。
大きな池。
池の周りの遊歩道はアスファルトに舗装されている。
鯉が一瞬、姿を見せる。
そして水面に波紋を作る。
鯉の波紋は、雨がつくる波紋と同じになる。
雨は、川のせせらぎのような微かな音をさせて、池に降る。
池は、曇った空と同じ色。
おじいさんは、毎日いる釣り人に声をかける。
「おはようございます」
釣り人はおじいさんに言う。「おはようございます」
そして伸吾に言う。「伸吾くん、おはよう」
「雨の日も、大変ですね」
おじいさんは、雨の日の度、彼に言う。少し呆れている。
その度に、釣り人は、少しきまりの悪そうな顔をして言う。
「やめたいんですけどね」
「伸吾くん、お前が散歩に行くみたいに、俺は釣りをやめられないんだよ」
彼はおじいさんではなく伸吾に言うのであった。
遊歩道をちょっとはずれると、広い公園だ。
アスファルトがなくなって、梅がいっぱい咲いている。
雨を含んだ土は柔らかくなっている。
歩けばちゅっちゅっと音が鳴り、ほんの少し、体は土に食い込む。
伸吾はそれが大好きだ。
梅の木の立ち乱れる中に、ひとつ、屋根のある小さな休憩所がある。
木製の、ベンチと、「テーブル」というにはお粗末すぎる「テーブル」。
どこぞの悪たれがした落書き。
おじいさんはその内容の卑劣さや猥褻さに顔をしかめてから、見なかったふりをする。
そして一服。
タバコを吸う。
ふー・・・
煙が雨に湿っていく。
伸吾は、濡れた体を一生懸命舐めながら、煙をひょいと見た。
雲みたいだ。
空に上って、梅の薫りと一瞬交わって雨に消える煙は、雲のようだった。

「こんな日だったか」
おじいさんが、誰に言うでもなく呟いた。
「春恵がうちに来たのは」
伸吾は「春恵」を知らない。
それは、時々おじいさんやおじいさんの友達との間に出てくる名前である。
「春恵」は、伸吾が家に来る前に亡くなったという、おばあさんであった。
「雨が降っていて・・・梅が咲いていて・・・俺はタバコを吸っていた」
伸吾は、おじいさんの足下で体を丸めた。
おじいさんは、伸吾を、ちょいっと見た。
それから、今度は伸吾に話した。
「見合いの席だってのに、いつまでたっても相手が来ない。うちの親父はかんかんに怒るし、俺は「逃げられた」と思って落ち込んでいたよ。俺は、お世辞にも色男とは言えない器量だったからな。
外を見ると、梅が雨に濡れていて。
俺は思ったよ。
梅は俺の代わりに泣いているんだな、と。
女々しいと言われようが、俺はそんなことを考えた。
タバコを吸って、気を紛らわそうとした。
ところが、二時間たって春恵は現れた」
ごめんなさい、雨で道がぬかるんでいて。
「そう言う春恵の頭に、梅の花が落ちていた。
俺は、遅刻された腹いせも手伝って、意地悪くこう言った」
頭に、梅の花、ついていますよ。
「俺がそう言うと、春恵は頭を触って、梅をとって「あら、本当」と笑った」
あたし、春恵なんて名前ですもの。春がついてきちゃったんだわ。
「ガラス玉を転がすような笑い声だった。
俺は、それを聞いてもう、おかしくなってしまった」
では、僕にも春をくださいな。

おじいさんは、小さく笑った。
頬が桜色に染まっている。
伸吾はしっぽを振った。
おじいさんは、おばあさんが本当に好きだったんだね。
タバコが小さくなって、おじいさんは火を消した。
伸吾は鼻をひくつかせる。
おじいさんの薫りはタバコのにおい。そして次に、梅の薫りと、雨の薫り。
おじいさんには今も春恵さんがいる。

おじいさんは立ち上がった。
「さあ、帰ろう」
伸吾も立ち上がった。
おじいさんと伸吾は、来たときよりもゆっくり、歩く。
こうして、ゆっくり年を取っていく。
小さな休憩所を出ると、雨がやみ始めていた。
梅の花は今が満開。
つぼみをつけた桜の木が、本格的な春を迎えようと準備している。


*初めて「ホームページ」を作った時に載せた作品です。色々悩んでいた頃のもので、とても思い出深いです(2010.7.29)