水道橋

 御茶ノ水を過ぎて、私は立ったまま少し外を眺めて、遷ろう景色を望んだ。
 緑に輝いた御茶ノ水から、やがて大きな道路、たくさんの車、むせ返るような人の群れ、高い建造物。
 そして、川。そこにかかる橋。
 
 
 「すいどうばし」
 
 
 ホームにかかげられた駅名を小さく口に出した。
 私が降り立った駅。
 
 
 8月。改札を出れば陽射し。くらりと一瞬眩暈。熱気。日焼け止めクリームをバッグから取り出して、もう一度露出した腕と首に塗りたくる。黒とレースの晴雨兼用折り畳み傘。パッと咲かせて差すと、少しばかり和らぐ太陽。
 
 
  この駅に降り立つのは何年ぶり?

 少しきついサンダルで歩き出す。学生でごった返す道。片隅に置かれた郷愁と、進みたい未来への思いで歩き続ける。
 コツコツコツ、サンダルの音が耳に響く。片隅の郷愁を打ち消さんとするように。 
 私はM大学の文学系大学院事務室へ向かう。

 「す、い、ど、う、ば、し」
 
 滲む汗にも構わずに手をつないだまま私は駅名を読み上げた。同じように汗ばんだ手で、私の手を握り返したサトルの骨ばったゴツゴツとした指。サトルは自分の帽子を私の黒髪の上に乗せると、きゅっと強く引っ張って改札口へ向かった。
 
  切符ある?
  あるよぉ
  行くよ
  ねぇどっちに行くの
  どっちがいい?
 
 改札を抜けて、一度離れた掌をもう一度つなぎ、サトルは私を引っ張った。
 
  暑いなあ
  汗くさいよ
 
 そう言いながら私はサトルの汗の臭いをかいだ。ランニングシャツからはみ出したサトルの鍛えられた腕は汗でべたついていたけれど、私は肩を寄せた。じんわりサトルの汗と私の汗が交わった。なんだかそれが嬉しくて、わけもわからず「どっち?どっち?」とはしゃいで歩いた。
 
 
 
 「失礼します」
 事務室に入ると、すぐに若い女性職員がやってきた。
 「はい」
 「文学研究科の大学院入試要綱と過去の問題集を頂きたいのですが」
 「2つあわせまして800円になります」
 「はい」
 スムーズに進む事柄。既に何部も用意されている要綱と問題集を取り出すのと私が財布から800円を取り出すのはほとんど同じスピード。冷房の効いた事務室はさきほどまでの汗を冷やす。ねっとりとした日焼け止めクリームが鬱陶しく感じられる。どの教室も冷房は効いているのだろうか。私大だからきっと効いてるんだろうな。そんなことを考えながら「ありがとうございました」と頭を下げて「失礼しました」と事務室を出る。
 エレベーターで1Fまで降りれば、あの頃のサトルのような、青臭さを秘めた若者が何人も学部の事務室に寄っている。入試の過去問を買いに来る高校生たち。
 
 
 あの中の何人が オチテ
 何人がウカル のだろう
 
 
 高く近代的な校舎を見上げて、私はもう一度駅へと向かう。長居の必要はこれっぽっちもなかった。
 今更観光気分は出ない。一刻も早く過去問に目を通した方が得策。
 
 
 
 サトルはオチタ。
 2年受けて、2年オチタ。
 2年目にはひたすら苛立ってた。
 
 そんなにイライラしてたら勉強はかどらないでしょう
 
 言いたい言葉を飲み込んで、私は隣で自分の受験勉強を進めた。
 いつのまにか煙草を吸い始めたサトルは、図書館でよく「一服」と言って席を立ち、喫煙所に行って30分は帰ってこなかった。ひきとめようとする私に、サトルは「コジンノジユウ」という言葉を投げた。
 
 サトルと同じ大学を受けるわけでもなかったけれど近い大学を受けようと思ってた。
 けれど、図書館の隣の席で勉強すればするほど、サトルと私は遠のいていった。
 
 
 
 3月、私が入学金を郵便局で為替に変えている頃。
 サトルは母校の窓を割っていた。
 卒業式に流した涙は母校のためではなく、もう出会うこともないだろうサトルのためだった。
 
 
 
 駅に入る、再び熱気、電車を待つ、じんわりにじみ出てくる汗、ハンカチを取り出す。
 脇に抱えたバッグの中の入試要綱と問題集を気にしながら、私は空を見上げてつぶやいた。
 
 
 「す い ど う ば し」
 
 
 あの頃サトルが目指した大学の大学院を狙っていることに、学術的興味以外の理由は何ひとつなかった。
 サトルがどうなったのか、私はもう知らない。
 サトルもきっと、私の行方を知らない。
 
 
 フリマで買った300円の帽子を深くかぶって、ハンカチで額の汗を拭いて、バッグの中から取り出したメイク道具で簡単に化粧直し。
 バッグの中の携帯電話が振動して、着信を告げていた。
 発信者名を見る、「ヒロシ」。
 通話ボタンを押す、「終わった?」「うん、終わった」「迎え行こうか?」「もう駅だし」「なら部屋で待ってるし」「冷房つけといて」「電気代高っ」「扇風機でいいよ」「冷房ですね、カシコマッタ」「あ、電車来る」「なら切るし」「うん」「冷房ですね」「ヨロシクドウゾ」、終話ボタン。ホームの白線内側に立つ。電車が止まる。「水道橋」とアナウンス。
 電車の中はひんやり冷えて、私はバッグからカーディガンを取り出し羽織る。
 電車が動き始める。
 
 
 ホームの「水道橋」の文字はやがて、電車の速度に消されて見えなくなった。