接触

 曇った窓から外を見た
 町工場の煙突が雲に紛れて煙を吐いた
 私はそれを見ながら溜息を吐いた
 今度は二人で横浜に行こう
 何かをスケッチしながら彼がそう言った
 横浜よりも鎌倉がいいわ
 私が答えた
 アパートの前の寂れた薬局では万引きが起きていた
 店主が中学生の首根っこをつかみ何か怒鳴っていたがその言葉を私はしっかり聞いていたわけではない

 彼は何を描いていたのだろう

「絵描きの彼氏は元気?」
 久しぶりに会ったあっちゃんが、チューハイをグイッと飲むと、何かのついでのように尋ねた。実際彼女にとっては「ついで」に過ぎないのかもしれなかった。酒の肴にもならない程度の。
 私は「自然消滅」と答えて、初めて「ああ、彼とは終わったんだ」と気がついた。別段寂しさもなければ悔しさもなかった。そこには愛がなかったわけではないと思ったが、愛がなければ付き合っていけないわけでもないし、愛がなかったことにしてもいいか、とぼんやり考えた。
 あっちゃんは「悪いことを聞いてしまったね」と言ったが、口調はちっとも悪びれてなかった。それでよい。彼女は飲み友達として最適だ。
「あっちゃんこそどうなの?反町隆史似の彼は」
 私は数ヶ月前に聞いた「合コンで知り合ったんだけど、超かっこいいの」という彼の話題をふってみた。だがそれは私の話題から転換させたかったから、というわけでもなく、挨拶のようなものだった。高校を卒業してから、女友達と会えば男の話になっていた。別段自慢しているわけでもなく、ただただ、「彼氏」というものが高校時代よりも密接に自分に関係するようになっていた。それだけの話だ。
 あっちゃんは私の背中を叩いて「何でそんなこと聞くの」と笑い、「熱々だよぉ、勿論」と言った。それから「クリスマスなんてねぇ、二人で温泉行っちゃってさ…」と話し始めた。聞いていないわけではないが興味津々で聞くわけでもない。彼女はそれでよいと思っているだろう。あっちゃんは飲み友達としては最適だ。
 反町隆史似の彼氏が本当に反町隆史に似ているのかどうかは定かではない。アバタもエクボとやらである可能性は多いにある。だが、本当に反町隆史に似ているのだとしたら町を歩く時は快感だろう。「あの人反町に似てる」と誰かは指をさし、それは嬉しい視線だろう。

 「絵描き」と町を歩くことは少なかった。私が出歩きたい性格ではないことも影響している。会いたくなったら私は「絵描き」の部屋に行った。そこは町工場が密集している汚い地域だった。家賃は案の定安かった。「絵描き」という自称職業は、そのチープさに彩りを添えた。
 たまには町を歩いた。「絵描き」が絵の具を買いたがったり、私が食事をしたがったりした。「絵描き」はそのときもスケッチブックを手放さなかった。街角で面白いものを見つけると、まず私にそれを教える、などということはしなかった。すぐにスケッチブックを開いてシャツの胸ポケットから鉛筆を取り出すとスケッチを始めた。私はその間、「絵描き」のシャツの裾をつかみながら「絵描き」とは別の方向を見ていた。人の流れを見ていた。人々で溢れているのに、人々を取り巻く社会は恐らく二、三人なのだろうことは推測するに易かった。それらは交わることなく過ぎていく。肥大化する社会では、むしろ人間の社会はミクロ化していくのだと、そんな話を社会学の講師の顔と一緒に思い出した。
 スケッチは大抵三分もかからなかった。「絵描き」はそのときになって初めてスケッチブックを私に見せて「これ、面白いだろ」と言うのだった。それでようやく私は「絵描き」がとらえていたものを見つけ出し、「なるほど、面白い」と思うことが出来たのだが、そのときにはもう「絵描き」は別のことに関心を移しているのだった。

 そんな関係も決して嫌いではなかった。

「それじゃあさ、それじゃあさ・・・まいこたんは今、フリーなんら、独り者なんら」
 そろそろろれつがまわらなくなってきたあっちゃんを見ながら、次のオーダーは止めさせよう、と決めている。彼女は私よりも酔ってくれる。飲み友達としては最適だ。
「そうね。フリー…じゃないかな」
 私は少し考えた。
「違うの?まーこたんはもう新しい男を作ってるの、いやらしい」
 新しい男、というほどでもなければ、いやらしい、と言われるようなことはまだ何もない。彼を愛しているのか、と言われればわからないし、それを考えれば、さっきと同じ、愛していなければ付き合えないわけでもない、という考えに至る。
「新しい彼氏はぁ・・・また絵描きなのぉ?」
 私はウーロン茶を一つ注文した。このへんの大学生だろうアルバイトが少しハスキーな声で「ウーロン一つ」と奥に声をかけた。
 また絵描きなの、と言うほど私は人と付き合っていない。絵描きと付き合うことは彼が初めてだし、恐らくこの先はそんなことはないだろう。大学を卒業すれば経済的なことも考えねばならなくなってくる。だがあっちゃんにいわせれば「個性的なまいこちゃんには個性的な彼氏がぴったり」なのだそうだ。少し笑う。
「普通の学生だよ」

 すぐに会える距離が一番の魅力かもしれない

 三ヶ月前に引っ越した。
 以前住んでいたアパートから学校は遠かった。これから卒論で忙しくなるし、そうすれば学校に近いほうがいいだろうと思った。「絵描き」のアパートからは五駅も離れた。会わなくなった理由はただそれだけだった。
 彼と親しくなった理由も、ただ歩いて五分の距離に彼の部屋が存在するという、それだけの理由だった。

 アパートではなくマンションだ。
 駅から歩いて10分、コンビニと本屋が目の前にあってオートロック。近くのスーパーには主婦よりも学生が溢れた。部屋にはミスチルのCDと流行の小説が置かれ、彼はあまりに普通の大学生だ。

 窓はカーテンがかけられていた。
「どうして?」
 と私は聞いた。
「だって、外から見られるの嫌だろ」
 と彼は答えた。
「開けていい?」
 と私は聞いた。
「いいよ」
 と彼は答えた。それから立ち上がって、私の後ろから手を伸ばし、カーテンを開ける。バッと光が飛び込んで一瞬目がくらむ。外は眩しかった。埃がふわふわと漂っているのが見えた。
「汚いよ」
 と私は言った。
 彼は私の髪の毛をそっと撫でた。
「掃除して」
 と言った。少し甘えた声で。そういった言葉や仕草には親しみを感じても、不思議とときめくことはなかった。愛されることはあっても愛することはないかもしれない、と感じる。

 窓の外では若者がコンビニの前で自転車を止めていた。彼と入れ替わるようにして年配の男性がワンカップのお酒を開けながら出てきた。
 この近辺では珍しい小学生が三人、ランドセルをカタカタ鳴らしながら走ってきた。
 コンビニと本屋の間の電柱の前で立ち止まる、じゃんけんぽん。
 二回くらいあいこが続いて、三回目にパーで負けた小太りの少年にランドセルが渡される。
 ちょっと笑った。
「どうしたの?」
 彼が私を上から覗いた。「ほら、小学生」私が指さしたときには、もう小学生は駆け出していた。
「小学生、どうしたの?」
「じゃんけんで、負けると荷物持たされるっていうの・・・よくやらなかった?」
 懐かしい、と私が言うと、彼は合点のいった表情になった。「僕もよくやった。いつも負けて、荷物持たされるんだ」
 懐かしむ表情を一瞬するので、私は「共有」という言葉を思い浮かべた。「絵描き」とは何一つ共有することがなかった。それでよかった。
「わかるな。あなたってそういう人よね」
「どういう人?」
「お人好し」
 彼の手が私の肩を抱こうとしていた。だが彼はそこに至れずに、髪の毛を撫でた。

 彼の部屋に出入りするようになってから一ヶ月が経った。
 「絵描き」の部屋に初めて入ったとき、「絵描き」は私を抱き寄せてキスをした。高校二年の時に付き合った野球部員ですら、三回目のデートでキスをした。
 彼は私の肩を抱くことすら出来ず、まるで割れ物を触るように慎重に髪を撫でることだけで私への愛情を示す。

 そういう関係も決して嫌いではない。

「きみは面白い」
 と「絵描き」が言った。
「きみの世界は面白いね」
 意味がわからなかった。
「あなたの世界のほうが面白いよ」
 私は「絵描き」の胸に寄りかかって言った。
「絵描き」はどこか見ながら
「きみと僕は最高の相性だ」
 と言った。

 最高の相性も距離には敵わない。
 いちいち電車に乗ってまで出歩くのは好きじゃない。

 年度末が近付いてレポートを4本抱えた。
 テストもいくつかあったが、「持ち込み可」のやる気のない講義だったので私は何一つ対策を取らない。私は比較的標準的な大学生だ。
 二週間、彼の部屋に行っていない。
 このまま付き合ってもいいかな、と思っていたけれど、このまま会わないで付き合わないのもいいかな、と最近思い始めた。テストが終ったら合コンしない?という話を由利と浅江がしていたし、「彼氏」が欲しいなら適当に合コンで見つければいいか、と思った。別段欲しいとも思っていなかったが、何かの付属品のように、たまに欲しくなるときがあるので、持っていて不便はないと思う。
 テレビをつければバレンタイン特集だった。何か彼にあげようかな、とも思ったけれど、いちいち会いに行くのも面倒だったのでやめた。作るのも面倒だったし、彼のためにチョコを選ぶ気持ちも起きなかった。

 課題のうちの二つは難なく片付いた。誤字脱字のチェックだけをすると、文章構成はさほど気にしないでファイルに挟んだ。明日の昼に提出しに行こうと思った。
 三つ目はなかなか進まなかった。
 久しぶりに町に行こうかな、と思った。気分転換は重要だ。

 冬物のセールをやっていた。
 あまりお金も持っていなかったので二着だけ買った。
 駅に入ると「絵描き」に会った。
 「絵描き」は少し驚いた表情をした。私も驚いたので、珍しく二人は「共有」したのだといえる。

 「絵描き」の部屋は相変らず町工場にあった。相変らずそこは汚くて、「絵描き」の貧乏も公害のせいではないか、とありえないことを考えた。
 扉を閉めるとすぐに私を抱き寄せた。「絵描き」は手順も変わらなかった。

 「絵描き」がトイレに立つと、私は上半身を少し起こして、窓から外を覗いた。
 町工場の煙突は相変らずだ。
 今日のような曇りの日には煙と雲が区別つかない。
 薬局には体格のいい作業着の男が入っていった。
 少し考えて
 もしも「絵描き」ではなくあの男に抱かれても私はきっと平気だろう
 と思った。
 愛し合う必要が感じられなかった。
 もっとも、「絵描き」を愛しているのかといえばそれも怪しい。

 だがそれでよい。

 「絵描き」はさすがにトイレと風呂にはスケッチブックを持ち込まない。私を抱いている間も決して開かない。
 枕もとで見つけたスケッチブックをめくると、私が描かれていた。それは恐らく、「絵描き」が私を抱いているときに見た「私」であった。
 少し嫌悪感を覚えてスケッチブックを閉じた。
 「絵描き」は戻ってくるともう一度私の体を舐めまわした。正直私は帰りたかったが、帰ったところでいいレポートが書けるというわけでもないのでそのままにした。抱かれながら「絵描き」のことを考えた。
 そういえば私と「絵描き」はこの時間すら「共有」したことがなかった気がする。私はいつも何か考えながら抱かれていた。「絵描き」も恐らく私を目に焼き付けてスケッチブックに描写することを考えながら私を抱いていたのだろう。そしてその絵は枕もとに置かれ、「絵描き」を慰めていたのだろうか。
 だとすれば「絵描き」は私を本気で愛していたのかもしれない。

 彼の部屋に行かなくなって四週間が過ぎた。彼が私の部屋に来ることも少し期待していたが、肩も抱けない彼にそれは無理だとわかっていた。
 当然のように、「絵描き」の部屋にはあれ以来行っていない。「絵描き」が私の部屋に来ることもなかった。
 長崎との遠距離恋愛をしている美咲が、「どうしても会いたい」と言ってテストが終わった直以後に飛行機に乗った。昨夜「会って良かった、泣き言ばっかり言ってごめんね」とだけメールが入った。それから先はメールが来ないから仲良くやっているのだろう。

 歩いて五分さえ億劫になっている私に、美咲が少し羨ましい。

 どうしてこんなに近い距離に住んでいながら四週間の間、こんな偶然がなかったのか、と思ったが、私が出歩かないせいだと気がついた。
 コンビニで彼と会った。
 彼は一瞬戸惑っていたようだった。私は戸惑うというより少し驚いた。
「久しぶり」
 そう言うと
「久しぶり」
 と彼も言った。ボキャブラリの貧困さが彼の戸惑いだと思った。

「どうしてた?」
 と聞くと
「テスト」
 と答えた。
「私も」
 と言うと、
「どこも同じだね」
 と笑った。

 彼は牛乳と食パンをかごに入れた。
 私はそこにヨーグルトを混ぜた。
「あなたの部屋で食べていい?」
 彼はもう一つヨーグルトを入れた。

 コンビニを出ると、私の気が少し変わった。
「やっぱり、うちに来ない?」
 彼は本当に驚いた表情をした。それから頬を赤くした。
「いいの?」
 私も自分で言ったことに驚いたので「共有」だと思っていた。
「いいよ」

 彼と私は少し距離をおいて歩いた。距離といっても一メートルも離れていなかった。でも密接している距離ではなかった。言ってみれば恋人同士の距離ではなかった。少し彼が出してた緊張感も「他人だ」と感じさせた。
 向こうから小学生が走ってきた。細身の子が最初にジャンプをした。着地の瞬間、ランドセルと体が揺れた。次に来た子は「ソルトレーク、一着!」と言った。オリンピックが彼らの中では最も旬の話題らしかった。
 小太りの子がやってきて、ジャンプした。うまくいかなくて転ぶ。驚いて少年を見ると、少年は恥かしそうにして、笑って、「ジャンプ失敗」と言った。
「頑張ってね」
 と言うと、少年は前を走っていた子どもに体当たりをした。照れていた。
 ふっと横を見ると、彼は微笑んでいた。
「あなた、ああいうタイプだったでしょ」
 私がそう言うと、彼はまた少し赤くなった。照れていた。

「彼氏は?」
 部屋に着いてから、彼は呟いた。
「え?」
「彼氏は、いいの?」
 言っていることがわからなかった。
 彼の表情を読もうとしたけれど彼はうつむいて、表情が見えなかった。
「彼氏って?」
 彼の顔が少し上になって、うろたえているような目が見えた。
「…最近来ないから、彼氏が出来たんだと」
 私は少し笑った。
「いないよ」
 彼の目が明るくなった。
「あ、そうなんだ」
 私も少し明るい気分になった。
 それからヨーグルトを食べた。
「これ、ちょっと甘過ぎじゃない?」
 彼が言った。
「そうなの?」
 私が言った。
「ほら、食べて」
 彼が紙スプーンにヨーグルトを乗せて私の口に運んだ。
「甘い」
「そうでしょ?」
 彼は、失敗したな、という表情でヨーグルトをつついた。
「でも私、こういうのも嫌いじゃないわ」
 彼は「ふぅん」と言った。
「きみのはどんな味?」
 私は紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
「あ、おいしい」
 彼は「ついつい口から出た」という風に言葉を発した。
 私はもう一口、紙スプーンにヨーグルトを乗せて彼の口に運んだ。
 そしてそのまま彼の首に手を回して、私はたしかキスをしていたように思う。

 愛しているとは思っていないけれど、愛していなければキスをしてはいけないわけでもないし、それに、彼がいとおしいような気がしていた。

彼が窓から外を見た
何が見えるの?と聞くと
電柱
と答えた
それから
カレー屋 駅 スーパー ファミレス 大学 マンション
と続けた
私は彼の隣に並んだ
どうして自分の部屋の窓からの景色を私は見たことがなかったのだろう

空も見える
と彼は言った
見れば電線にさえぎられて切れ切れの空があった
鎌倉に行きたいな
と私は言った
春休みはいつが暇?
と彼が聞いた
横浜でもいい
と私は言った
僕はバイトもないし暇だけど
と彼が言った
そして
一泊二日じゃ足りないよね
と言った
最後の週がいいな
と私は言った

彼の手が髪を撫でて、それから肩に回されていることを感じた。
こういうかんじは決して嫌いじゃない。
愛してはいないかもしれないけれど いとおしい。
そう思った。