愛しの愚者マリイハンナ

彼女を私が知ったのは学園に入学して間もなくのことだった。神学の講義に於いて聖人の奇跡を幾つか教えられた。だがしかし我々は奇跡を求めることなく信仰を礎として日々の生活をたゆみなく浄く正しく微笑をもて過ごすべきであると。休憩時間、微笑の練習をしていたら、隣の教室から聞こえてくる、けたたましい叫び声、女たちの。下衆な男が誰かを冒涜している言葉。女たちの非難がましい悲鳴がやがて嘲笑に変わり、一日の終り、私は彼らの真ん中でひきつった笑いをうかべる涙顔の女を知る。
マリィハンナ。
口はだらしなく半開き、うなじあたりで結われた髪は灰色の、濁った目をぎょろりと動かし周囲を見、下衆な男が何かを言えば肩をすくめて頭を振って頷いて、女が指差し仰け反り笑い転げれば、その指を見て黄ばんだ歯を見せ口元を歪め、迎合した笑いのつもりですか、それは、醜い。
私はブーツを脱ぐと投げてやった、外れもしないで茶色い真新しい入学祝いに買ってもらったばかりの革のブーツはマリィハンナの顔に当たった。仰け反り笑う女が止まって私を見たが、すぐに指差し笑い続けた。男はこちらに目だけを寄越すと彼らのブーツを脱いだ。宙をブーツが角度のある放物線を描いて落ちる、マリィハンナの頭上に。愚かなマリィハンナは眉根をひそめたその後で、黄ばんだ歯を見せ赤く艶々した舌を見せ笑う。

マリィハンナは愚かである。私や多くの同級生を侮辱することは大半の人間にとって罪悪であり教義に反する。だがマリィハンナを侮辱することは許しの中にあるように思われた。マリィハンナは人に侮蔑され穢され貶められるために生まれたかのようだった。戒律に基づく厳しい学園生活の中で鬱憤を蓄積する我々に、聖人が寄越した奇跡の存在に思われた。マリィハンナは何をしても愚かしい笑いを浮かべていた。殴られて泣いても汚い顔を見せていつも笑っていた。神に奉仕し教鞭を振るう大人たちはそれを見て見ぬふりどころか、講義の中でマリィハンナを責め立てることに躍起していた。頭の悪い生徒が答えられない質問の後マリィハンナは当てられて、愚かな女が正解を導くはずもなく教師は彼女を教壇へ呼び、鞭で打った。彼女の背中に鞭が当てられない日はなかった。そのような折にもマリィハンナは口元をだらしなく歪め、目尻を垂れているのだった。阿呆であった。

聖人の奇跡に関する講義は年間を通じて行われた、毎度締めくくりは奇跡は淀まぬ信仰の積み重ねに他ならない、浄く正しく微笑もて生きよとお定めで飽き飽きしていたが、100を遥かに越え、学園に規定の年数いたとしても覚え切ることの出来ない聖人の奇跡は私にひとつの可能性を示し始めた。
私も聖人となることである。
多くの生徒と同じく私は奇跡に憧れていた。神や聖人が引き起こす奇跡は胸を震わせ瞳に輝きを与えた。肉欲の罪を犯した男が臨終の間際に獣に己を食わせ死後、彼の世界に引き寄せられて聖人に認められた逸話などは特に鳥肌が立つ。最後に食われるところが何より良かった。教本において<大熊はぺちゃぺちゃ音を立てて彼を食べた>と擬音まで使って表記されている、それが良い、魅惑する。私も己を誰かに食わせることを考えた。ぺちゃぺちゃと下品な音を立てて食われた私は透明な羽を持つ空の子らに手を引かれ、彼の世界に発つ。彼の世界で神と歴代の聖人に跪き、死後の認定を受けた後聖人の階級を貰う、私が教本に載る、銅像が立つ。
この痺れる空想のクライマックス、私を食らうのは大熊だったり大蛇であったりした。時には教壇の大人、神官、田舎の両親、クラスメイト、だが一番身震いするのはマリィハンナに食われる空想だった。
マリィハンナのあの、汚らしい骨張った腕が私を押さえつけ、灰色の髪を垂らした貧相な頬を血塗れにして赤く艶々した舌を押し当てた後に黄ばんだ歯ががぶりと私の喉を割く。私は叫ぶことなく穏やかに食われる。場所は聖堂がよろしい。聖堂の神像前、私を食らうマリィハンナの舌音だけが響いている…ぺちゃぺちゃぺちゃ…

私は毎夕マリィハンナを度々聖堂に招くといつも教本を手にして礼拝し、向き合って聖人の奇跡を語り合おうとした、けれどマリィハンナの愚かしい顔を見ると奇跡のことは頭から飛び、彼女の頬を教本で打ち、ブーツで腹を蹴り、知る限りの侮蔑の言葉を叩きつけ、淫らな行為を強要することしか出来ない。鼻や口から血を出しながらひきつった笑みを浮かべるマリィハンナが何も言わなくなるまで続け、夜更け聖堂に月明かりが差し込むと清々しく浄い心持ちとなって私は愚かな女に手を差し伸べる。マリィハンナはごつごつした指で私の手を取り、接吻し、祝福をする、その頭を今一度床に押さえつけ唾をはき踏みつけると聖堂を一人で出てゆく、までが日課であった。

ある時マリィハンナは堕落し、その噂はたちどころ学園中に広まった。マリィハンナは煙草と酒を覚え卑猥な態度を身につけ、神官たちが会議にかけるところとなった。あらゆる堕落を身につけそれを隠さぬ愚かなマリィハンナは間もなく学園を追い出される運びとなった。多くの者がそれを拍手喝采で受け入れながら、誰もが胸に一つの期待を抱いてやまなかった。
マリィハンナが、最後に必ず皆が見たいと望んでいる姿を見せてくれるだろうということを。
彼女を堕落させたのは私であった。直接的では無論ない。私は私の持つ様々な接点を辿り、見知らぬ相手にマリィハンナの堕落を依頼し愚かなマリィハンナはその通り堕落し、堕落してなお愚かな笑みを止めないマリィハンナに私の興奮は極限に達していた。今煙草と酒によって悪臭を持つマリィハンナの歯がはらわたを引きずり出すところを空想し全身を痙攣させた。

マリィハンナが学園を去る日、私が教本のあの場面を諳んじてみせるとマリィハンナはひきつった笑みを浮かべた。私は学園中が彼女に注目する中歩き出し、マリィハンナの前で衣服を脱ぎ全身を晒し、申し出るーー愚かで堕落したあなたを浄めるために私を食らえばいいと。
学園の注目が私に集合する。
マリィハンナはうすら笑いで口元を歪めると、私の喉元に接吻。赤い艶々した舌が音を立てる、ぺちゃぺちゃぺちゃ…。瞬間、私はマリィハンナを殴りつけ地べたに押し倒し、歪んだ頬にこの白くやわらかなかかとを落とした、それが皮切りで、学園中の女が男がマリィハンナに集まると、皆が皆かかとを落としていった。マリィハンナは醜く彼の世界へと発った。

かくして愚かなマリィハンナを失った我々には、浄く正しい微笑の日々が残された。平穏な微笑を浮かべ挨拶を交わし、頭の悪い生徒は正当に罰せられ、たゆまぬ努力を続けることとなる。私は聖人たらんとした姿勢を評価され神官の道を歩むこととなった。マリィハンナは聖人にはならなかったが、聖堂の裏に小さな銅像を立てられた。その銅像に、人は穢らわしいものをひっかけて喜ぶのだった。神官となった私は聖堂と聖像を管理する仕事であり、その中にマリィハンナの像も含まれた。夕の祈りの後、私は悪臭の漂うマリィハンナの像に酒をかけ浄めるのであった。
私の最後はこのマリィハンナの像で殴打されることによりたいと祈る。

午前零時の田崎くん

零時近くになると田崎くんが机の上に現れる。
田崎くんはラケットをもってテニスコートを走り、手首で汗を拭ってまた走る。
私は田崎くんのプレーを邪魔しないように両手を膝の上に置く。
きっとこれは幻だろうから、どうか幻が消えませんように、と息を殺して見つめてる。
五分もしないうちに田崎くんは姿を消す。一度も私のほうなんて見ない。
私は恐る恐る右手をあげて、さっきまで田崎くんのコートだったノートをなでるけど、シャープペンシルの粉がうっすら指につくばかり。
完了形の復習を始める。

田崎くんはきっと私を知らない。
私は田崎くんを知っている。
田崎くんは田崎誠くんという。
田崎くんは4つ向こうのクラスにいる。
田崎くんはテニス部。
田崎くんはうちのクラスの山下と仲がいい(テニス部だから)。
田崎くんは右の眉毛が長い。
田崎くんは最近猫にひっかかれた。
私は田崎くんのことを色々知っている。
田崎くんは人気者。
人気者だから、私が田崎くんのことを噂しても、みんな不思議に思わない。
でも、夜な夜な私の机の上に田崎くんが遊びに来ている(という幻を見ている)ことは、誰にもいえない。
受験勉強で頭がおかしくなったんだ。誰だってそう言うだろうなあ。私でもそう思う。小学校の頃ちょっと心療内科へ行ったことがあるから、私はそういうケがあるんだろう。
実際、ひどく疲れていたり(水泳のあった日はそう)、家族につかまったりして勉強できないで眠る夜は田崎くんを見ない。もしかして田崎くんは来ていて、私が机の上を見ていないから結果的に見ていないだけかもしれない。
ともかく私が小さな田崎くんを見るのは、零時前後、勉強をしている時に限られる。

夢で見たことはないんだよね。
麻美は木内くんを夢で見るらしい。夢で木内くんと麻美はいい感じになるらしい。でも夢占いによると、いい感じになる夢はうまくいかない暗示らしい。
そんな結果を知りたくないから、私は田崎くんを夢で見なくてよかったなと思う。

学校でも、実はあんまり見ない。
学年集会の時にちらっと顔が見れる。でもあんまりじっと見るのもおかしいし、先生に怒られるし、ちらっと見るだけ。
それと、音楽室や理科室に移動する時、田崎くんの教室の前を通って、その時田崎くんのクラスが体育とかでなければ、見れる。
あと、帰りに田崎くんが部室じゃなくてコートにいれば、見れる。
部室で筋トレしてるらしい時は、見れない。
それもあんまりあからさまに見たらテニス部に嫌われるから、出来ない。

すごく運がいいとき!
すごく運がいいとき、田崎くんが山下に会いに来る。部活の連絡、テニス部の仲間とバカな話を思いついた時、それくらい。麻美が教えてくれるけど、私は妙に緊張してまっすぐ田崎くんを見れない。話しかければいいのに!近くに行けばいいのに!私は出来ない。

「最近妙な夢見るんだよね。テニスやってるんだけどさあ、シングルス。対戦相手が誰かわかんないの。毎晩見るよ。見ないときもあるけど。それでさあ、気づくとテニスコートの上に英単語とか、因数分解とか、書いてあるの。ストレスっぽくね?やだなあと思ってると、誰かの視線感じてさ、振り返って見るの。それは監督だったり太田だったり、レディー・ガガだったりするんだけどさ。夢の中でまで勉強しつつ部活やってんの、やだよ。俺、かなりのストレスっぽくね?」

夏の大会が終わって田崎くんは部活を引退したらしい。
もうコートを通り過ぎて帰る意味がなくなったので、私と麻美は正門から帰る。
学年集会では顔を見れるから、やっぱり見る。
そうしているうちに、小さい田崎くんはあんまり現れなくなった。
そうして小さい田崎くんの来訪が減っていくうちに、なんだか、私は前ほど田崎くんが好きではなくなっていった。

終業式の後、麻美と香澄と私はクリスマスパーティを企画した。ファミレスでケーキ食べて、香澄の家に泊まる。夜にプレゼント交換。私はクマの顔をしたハンドバッグを用意した。
香澄の家で着替えてお昼をごちそうになってから三人でファミレスに入った。
ファミレスでは、小学生や小さい子どもが走り回ってた。マナーが悪くてちょっとイライラした。香澄が年明けの模試の話なんかするから、さらに滅入った。
シフォンケーキを頼んで待ってる間、私は二人の分もドリンクバーを取ってくることにした。麻美がカプチーノ、香澄がココア、私はダージリン。
私はカップを三つまでは上手に持てると思う。
高校生になったらカフェでバイトする。

そのドリンクバーに田崎くんが、いた。
勿論、原寸大の。

びっくりして声も出せなかったけど、田崎くんと一緒にいた山下が「あれえ」と声をかけてくれたから、話すことが出来た。田崎くんのことを知らないふりして、山下と話した。
そして、そのままテニス部の男子五人と合流。
合コンみたいだね、と麻美が言うので私はずっと緊張してた。
田崎くんに、零時前後の小さい田崎くんのことを話そうかと思ったけど、よした。
変な人だと思われるに決まっていた。
それに、その頃には小さい田崎くんは三週間に一回とかでしか現れなくなっていたし、現れてもテニスをしていなくてゲームやってたりして魅力が落ちていたし、自分でも、あ、妄想だ、私疲れてるんだ、と納得していた。
二時間くらい話して、男子はテニス部の練習を見に行くというのでファミレスを出た。
私たちはそれから一時間くらい、ドリンクバーでねばった。
カラオケ行って、香澄のママの焼いたチキン食べて、夜は昼間の男子の話で盛り上がった。
二人が田崎くんのことで私を冷やかすから、私は突然、田崎くんを以前よりも好きになった。
田崎くんがかっこいいという話を、ずっとした。香澄が飽きて寝るまで、ずっとした。

それからは何もない。
お正月は家族と過ごしたし、年明けに模試があったし、願書出して私学受験して、公立受験してたらバレンタインも終わっていた。
卒業式も終わってふっと気がつくと、私は、もう、田崎くんのことが全然好きじゃなかった。
相変わらず、三週間に一回くらい、田崎くんは机の上に現れた。
高校の入学式の夜にも、田崎くんは現れた。中学生の時の姿そのままで、ドリンクバーのコーヒーにストロベリーフローズンを溶かして顔をしかめていた。
ティーンエイジャー特有の熱とやらに浮かれてバンドの追っかけをしている時の遠征先のビジネスホテルにも、零時頃田崎くんは現れ、やっぱり中学生の時の姿で、ダンスしていた。
駅で田崎くんを見かけてからは、出現する小さい田崎くんも高校生になっていた。
初めて出来た恋人に浮かれて寝付けない夜にも、小さい田崎くんは現れた。
結婚してからもしばらくの間、夜中に小さい田崎くんは現れた。
妊娠してからしばらくは出て来なかった。
子供がハイハイするようになった頃からまた、間隔を置いて現れるようになった。
成人式以来田崎くんを見ていないから、小さい田崎くんは二十才のまま止まっていた。
それでも、現れるのだった。
私は、ああ疲れてるんだな、田崎くんは私の健康のバロメーターだな、と思うようになっていた。

田崎くんは長い間零時前後にしか現れなかった。
三日前。
お昼過ぎ、田崎くんは私の愛用のミシンの上でテニスをしていた。
娘のスカートを縫い、息子のカッターシャツを直したミシンだった。
いつも、五分もすれば消えていた田崎くんは、なかなか消えなかった。田崎くんも、いつまでもボールが飛んでくるので、辛そうだった。いくつかボールをこぼしていた。
そして、夕飯を終えて部屋に戻ってみると、田崎くんはぐったりしてコートに倒れ込んでいる。
頑張れ。
田崎くん頑張れ。
私はそう、声に出してみた。
田崎くんはよろよろと立ち上がった。
ラケットを握る。
田崎くんの手首から肘に筋が立つ。
肩甲骨が盛り上がる。
ボールが飛んでくる。
打ち返す。
呼吸が荒くなる。
打ち返す。
肩を大きく揺らす。
打ち返す。
「頑張れ。田崎くん、頑張れ」
その間、田崎くんは、中学生になったり、二十才になったりしてみせた。
私が眠りについてからも、田崎くんはテニスをしばらく続けていたようだった。

二日前。
疲労困憊といった様子の田崎くんは、朝から私の食パンの上に座り込んでいた。
食パンを焼くことが出来ないので、冷やご飯をチャーハンにして食べた。
食パンの上にチャーハンを少し乗っけた。
田崎くんはチャーハンを食べた。
チャーハンは減らなかった。
夜には食パンから消えていた。

昨日。
朝から田崎くんは私の布団のそばにいた。
くすぐったい気持ちになるのと、自分の体調を気にするのと、同時だった。
私は起き上がれなかった。
手元に電話を引き寄せて、息子に連絡してみた。
息子は仕事中だった。
田崎くんはおどけたり、私の寝間着に入りこんだり、布団をくぐったりした。
楽しくて、楽しくて、だから田崎くんは人気者なのだと思った。

今日。
気がつくと息子が手を握っていた。
私は病院のベッドの上だった。
田崎くんは点滴の管にぶらさがって、こちらを見ていた。
そして
「大丈夫?」
と尋ねた。
私は頷いて、テニスボールとラケットを渡した。
田崎くんはテニスを始めた。
田崎くんはかっこいいなあと思った。
田崎くんは私をテニスコートに招いた。
田崎くんがボールを打つ。
田崎くんは私にラケットの持ち方を教えてくれる。
田崎くんと私でダブルスを組む。
田崎くんはかっこいい。
田崎くんは田崎誠くんという。
田崎くんがボールを打つ。
リズミカルな息で打つ。
田崎くんがボールを返す。
額のタオルが汗を吸う。
田崎くんがボールを返す。
右足を大きく踏み込む。
田崎くんがボールを返す。
陽射しが眩しい。
田崎くんはかっこいい。
田崎くんは私を知っている。
田崎くんは私を知っている。
今、田崎くんは私を知っている。

highteen

お姉ちゃんは、身内のあたしから見ても美人で魅力的だ。
ちょっとした仕草にあたしは時々ドキッとする。
はにかみやで、本を読むのが好きで、大学では英語を専攻。本屋のバイトで貯めたお金でイギリスに留学した。
黒い髪がよく似合う、ホントに綺麗な人なんだ。
だから、少しびっくりした。少しだけで、しばらくすれば「そういえば留学するときも突然だったっけ」と納得したけど。
お父さんは「仕方ない」とだけ言った。お母さんは、卒倒しそうになっていたけど、お姉ちゃんがあまりに自然だったから、「夢なのかしら」と言いつつも事が進行している。あたしは、ほんの少しお母さんが心配だ。でもこれも「ほんの少し」なんだけどね。
お姉ちゃんは、帰国してすぐ「できちゃった結婚」をすることになったのだった。

お姉ちゃんのダーリンはひょろっとした、あたしの感覚で言っちゃえば「冴えない男の人」。ユーダイさんという、れっきとした日本人だ。ユーダイさんは 「広井雄大」という、とってつけたような名前なのだけど、あたしは彼を見て「名は体を表す」って言葉は嘘だと確信した。いや、嘘なんじゃなくって、例外も あるってことかな。お姉ちゃんは「美鈴」、容姿が綺麗なだけじゃなくって声も綺麗なんだもん。
ユーダイさんは動物でたとえるならば馬。野菜だったらかいわれ大根。海外勤務の商社マンっていうならともかくそういうわけでもない。お父さんがオッケー 出した理由もわかんないんだけど、身分的にはお姉ちゃんと同じ留学生、少し違うのは大学院生ってことだけで、基本的に学生。「ウソー!」とあたしは呟いて しまった。
何よりあたしが「冴えない」と思うのは、鼻の穴が大きいこと。こんな人がお姉ちゃんみたいな美人と結婚するなんて信じられないな。
だけどお姉ちゃんは、ユーダイさんと話すとき、はにかんで、目尻を下げて幸せそうな顔をする。ウソー。
世の中には不思議なこともあるもんね。と、あたしは考えながら、「生まれる子どもの名前前はあたしとオンナジ、『美紀』にしてね」と、決め付けている。男の子だったら同じ字で「よしき」って読ませるんだ。

このことをあたしはクラスメイトの丘崎に言ってやった。丘崎は学年で一番に頭が良くて、顔も俳優みたいに綺麗な(どっちかっていうと、お姉ちゃんみたいな綺麗さ。女性的な美しさだとあたしは思っている)男の子だ。
丘崎は白い肌の頬を赤らめて「嘘」と言った。そうそう、こいつホモッ気があるらしいのだ。ターゲットは同じクラスの健一。時々うっとりした目つきで健一のほうを見ている。健一はこのこと気づいてるのかしらん?
「美紀のお姉さんって、あの純情可憐ってタイプの人でしょ。ショックだな、何となく」
「あたしだってショックだったよ。でもさ、ああやってイキオイのあるところもお姉ちゃん、流れる石だよね」
「さすが」を「流れる石」というのがあたしと丘崎の間では流行ってる。
丘崎はポテトチップの袋を開けながら「それはやっぱり『関係した』ってことだよね?」と言った。
身内のあたしには言いにくいことを、丘崎はさらっと言ってのけた。女の子の口から言われるのではなく丘崎の口からこんなこと言ってほしくないなぁ、とあたしはちょっと嫌ーな気分になる。
「そりゃ、コウノトリは、そうしなきゃ飛ばないでしょーね」
「どうしてそんなことしたのかな」
丘崎は溜息をついた。長いまつげが下を向いて一段と綺麗に見える。
「やっぱり人間って、そういうことがなけりゃ愛し合えないもんなのかな」と、丘崎。あたし、は「うーん」と、首を傾げる。
「愛し合った先に、性行為ってもんがあるんだと、あたしは思う」正論で一般論(だとあたしは信じてる)を、投げかける。放課後の教室で、年頃の男女二人、こんなことを話してるなんてどうかと思うけど。
だけどあたしがそう言うと、丘崎はほっとしたような顔をした。「あら可愛い」と、あたしは思った。
スマートな丘崎の体に、学生服はフィットしない。少し余ってしまう。それがまた、あたしは「綺麗」って思うんだけど、丘崎は嫌みたい。「手首のところが、擦れて痛いんだ」って言ってる。
「丘崎はどう思うの?」
あたしは肘を机についたまま問う。丘崎は椅子にもたれて、少しそっくり帰った姿勢で「オンナジ」と言う。「美紀とオンナジ」と言う。そしてはにかむ。い い年した男がよ?もう精通だってとっくの昔に経験してて、多分たまにはマスターベーションくらいやってるでしょ?っていうような男がさ、「性行為」ってい えないの。やっぱり丘崎って可愛い。
「やっぱり、そうだよね」
あたしは、とりあえずの相槌を打った。

ユーダイさんとお姉ちゃんとあたしの三人で、日曜に買い物に行くことになった。学生の身分のユーダイさんのどこにそんな財政力があるんだろう、ってあたしは思ったけど、ユーダイさん曰く「美紀ちゃんに誕生日プレゼントを買ってあげたい」ということだ。
あたしは、友達からプレゼントを貰うだけでよかったし、高校二年にもなって家族からの誕生日プレゼントなんて期待してない。お姉ちゃんは毎年ちょっとし たもの(それはホントにちょっとしたものだった。ヘアピンとか、リップとか、お姉ちゃんにもあたしにも負担にならないもの)をくれていたけど、お姉ちゃん の彼氏に貰おうなんて思ったこともなかったから面食らった。
「いいの?あたしゼータクだよ」
と、冗談めかして言うと、ユーダイさんは「いいよ、美紀ちゃんにも迷惑かけちゃったしね」とひょろひょろの体で笑顔を見せた。
ということはユーダイさん、お母さんやお父さんにも何かプレゼント買ってるってことかな?ユーダイさんのどこにそんなお金があるんだろう?
あたしは自分でも思うけど馬鹿みたいに正直だ。不満すらオブラートに包むどころか飲み込んでしまうお姉ちゃんとは違う。あたしはお姉ちゃんを尊敬だけし て生きてきたわけじゃなくって、そりゃ姉妹だもの、ねたみだってある。お姉ちゃんはこんなに美人なのに、どうしてあたしは美人じゃないのよ、と何度鏡の前 で泣いただろう。好きな男の子に「お前みたいなブス嫌いだよ」って言われた中一の春を、あたし忘れてない。頭だって良くないし、正直とりえらしいとりえも ない。そんなあたしに唯一出来た自己主張は馬鹿正直に自分をさらけ出すこと。そうでもしなくちゃ周りに認めてもらえない。
だから、わからないことは何でも聞いていく(ただし、好きでもなく興味もない勉強のことだけは不思議と質問できないんだよね)
「ユーダイさん、お金どこにあるの?」
それからあたしはもう一つ、ちょっと気にかかってることを言う。
「ユーダイさん、結婚するのだってお金かかるのよ?」
そうすると、ユーダイさんのかいわれ体が揺れて、あたしの頭を撫でた。かいわれ大根に手があったら、こんなさわり心地なのかもしれない、そう思うくらいに軽かった。
きちんとご飯食べてんのかしら?この人。
かいわれは一言、こう言った。

「僕はもう大人だから」

少しひっかかったから、ユーダイさんの帰ったあと、あたしは気づいたら丘崎に電話してた。他のどんな女の子の友達よりも、丘崎は気が合う。丘崎もそうだといいけれど。
「それはさ、大人だから結婚式の資金も頑張って出しますよっていうことじゃないかな?」
しばらく考えた後、丘崎は言った。あたしはそれでもひっかかった。
「何それ何それ。お金があれば大人ってことなの?」
「そういうわけじゃないと、思うけど」
何となくあたしは憤慨していた。ユーダイさんの真意を汲み取れないことが一番嫌だった。汲み取れないってことは、あたしが子どもだってことなのかもしれない、とも思っていた。子どもだけど、子どもだけど
「ユーダイさんだって学生じゃん」
「怒らないでよ、美紀。僕は思うんだけど、それって、ユーダイさんのアピールなんじゃないのかな。僕、思うんだけど、ユーダイさんとお姉さんの関係って、たしかに最近じゃ珍しくもないかもしれないけど、親にとっては嬉しいものじゃないでしょ?親って、美紀の親に」
「あたしの親に、自分を売り込んでるってこと?」
「言い方は悪いけど、そういうことじゃないのかな」
丘崎の考え方を聞いてるうちにあたしは、ユーダイさんが哀れに思えてきた。ユーダイさんとお姉ちゃんのしたことって、きっと一時のアヤマチだったんだ。 避妊を忘れてたのか、失敗したのか。怖くてお姉ちゃんにもユーダイさんにも、あたしは聞けないけれど、一時のアヤマチだったのだろう。もしも、もしもわざ としなかったのだったらユーダイさんはヒドイ。お姉ちゃんのことなんて、やらしい言い方すれば「欲望のオモチャ」にしか考えていなかったってことになる。
まぁ、あのかいわれにそんなことが出来るわけがないと思うけど。
「丘崎は避妊、ちゃんとする?」
あたしの関心はいつしかそこに移った。電話の向こうで丘崎の顔は真っ赤なのだろう、と想像した。
「僕はしないよ」
返された意外な答えに、あたしは一瞬言葉をなくした。
「違う、そうじゃなくって…」
丘崎は焦った声になる。「そうじゃなくって、僕がしないのは…」
「ああ…そういうこと」
みなまで言わずとも、彼の言いたいことがわかった。丘崎は多分性行為自体をしないって言ってる。それは現在のことだけではなく、未来もそうなのだ、と口調からあたしは悟った。
丘崎らしい、とあたしは何故だか諒解した。そして安心した。あたしは心のどこかでいわゆる性行為に興味を持ちながら、恐怖心が殆どだった。「ついにこの夏、捨てちゃいました」と話す友人たちを尻目に、あたしはまだまだ子供なんだわ、と感じていた。
「子どもでいいよね。あたしたち」
ユーダイさんはお姉ちゃんと関係を持ったから「大人だ」って言ったのかな。それも違う気がする。
「うん。心が大人になれれば僕はいい。人と人とは、もっと精神的なものでつながれたいよ」
だけど丘崎の求める「つながり」は、多分叶わない。聡い彼が、そのことに気づかないわけはないんだけど。

朝、お姉ちゃんの調子が悪かった。
あたしとお姉ちゃんを迎えに来たユーダイさんは、あたしに「すまない、また今度必ず」と言い、そのままお姉ちゃんの世話をしたいと申し出た。お父さんは 「きみにまかせた娘だから」と言って、「僕は釣りに行く」と言って、釣堀に避難した。お母さんは、意気込んだ顔つきで「よろしくおねがいします」とユーダ イさんに挨拶した。この人はこの人なりに、ショックを乗り越えてユーダイさんを受け入れようとしているみたいだった。
あたしは、といえば、ユーダイさんに「ちぇ、仕方ないなぁ。ユーダイさん、あたしプレゼントはコムサのスカートでいいよ」と、ゼータクをぬかして、出かけるつもりだったままのちょっとカッコつけた服装で家を出た。
「美紀、どこ行くの?」
お姉ちゃんの声が後ろから聞こえた。あたしは何も言わずに出て行った。調子悪いお姉ちゃんを心配させるようなことしてしまった。

だけどあたしは何だか嫌だったのだ。
お姉ちゃんと、お姉ちゃんの恋人が、つまり性的な関係を結びましたってことが明らかな二人がよ?二人で一緒にいる。
なんだか、吐き気がした。
丘崎に電話をする。留守電。メッセージを入れずに切る。友江。今から暇?塾?そう。アキ…は、アキはやめておこう。8つ年上だという彼の家に泊まってるはずだ。
誰でもいいから一緒にいたかった。どうして丘崎は留守電なんだろう。塾だっけ?そうだよね、みんなそろそろ受験だって考えてる頃だ。あたしだって乙女17だ…
そういえば丘崎はどこを受験するんだろう。丘崎だったら国立だろうか。あたしは、丘崎みたいなことは出来ないし…できれば芸大に行って絵を描きたいけど、それすら中途半端な才能で。
あたし一人、取り残されていく心地だ。

「美紀じゃん」
何気なく入ったマックで声をかけられ、見上げると、健一だった。がっしりとした体格にスポーツ刈りが似合っている。健一はそのままあたしの隣の座る。
「ひとり?」
「ひとり」
「彼氏待ち?」
「いないし」
小気味良いテンポで会話が進む。健一が人気者たる所以だろう。誰に対してもソツなく。そう、それはソツなく。
「丘崎は?」
「え?」
「いつも一緒じゃん」
この人、気づいてないのかな。丘崎が自分にほれてるって。
「いつもじゃないよ。今日は違うし」
「今日はおめかしさんじゃん」
「そう?」
「そう」
「制服しか知らないからじゃん?」
「いや、気合を感じるね」
ドキッとする。そりゃ、あたしは少しくらい楽しみにしていた。誕生日プレゼントを買ってもらえるってことを。
「今日はね、おねーちゃんのダーリンに誕生日プレゼント買ってもらうはずだったの」
「誕生日なの?おめでと。花の17歳か」
健一の声も、表情も明るくなる。大きな瞳がますます大きくなって。「今日じゃなくて、一昨日」というあたしの言葉を聞くか聞かないかのうちに、彼は「ちょい待ってて」と席を離れた。健一だって17歳じゃん、とあたしは呟いた。
驚いた。何で健一がここにいるんだろう、とか考えるけど、別にここは繁華街で今日は日曜だから誰に会ってもおかしくはない状況にあたしはいるわけで。それでも、偶然、丘崎の「意中の人」でしょ。いわば健一は。その人に会うなんて驚きだ。
しばらくして、健一がカップアイスを手にしてやってくる。
「はっぴばーすでー、みきちゃーん」
あんまり上手ではない歌を歌いながら、あたしにスプーンとアイスを贈呈。「やだなぁ、はずかしいよ」
「照れるなって。俺からの誕生日プレゼントだぜ?素直に受け取れぇ」
健一はよく話す。
あたしはアイスを食べながら、健一の今日の動向を知る。
今日は大学の赤本を買おうと張り切って来たものの、秋物セールをやっていてついつい足がそっちに向いてしまい赤本を買う気がなくなってしまったこと。その後ゲームセンターで現実逃避をしちゃったこと。
そんな普通のことを、健一は巧みに面白おかしく話す。
丘崎と話しているときとは違った楽しさが、ある。丘崎とは、ふざけた話をあんまりしない。丘崎とは、真剣な話ばかりする。丘崎は、深い、深い、親友に近い。
でも健一は「男の子」だ。
話してるとこっちも楽しい気分になってくる。丘崎は健一のこんなところが好きなのかもしれない。
そして、健一はさらっと言った。
「つーか、俺、美紀と付き合いたいな、とか」

8時も近くなって、家に帰るとユーダイさんは帰った後だった。
「遅かったじゃない。もうすぐご飯だよ」
お母さんが、台所で油の音をパチパチいわせながら言った。あたしはそれには何も答えず、二階の自分の部屋に行き、ポシェットをベッドの上に放り投げ、そ れから、中指にはめた指輪を外してメイク道具入れに隠した。鏡を見ると少し火照ってるみたいだった。顔を洗って、クレンジングでメイクを落として、それで も顔が赤いようだったから、もう一度メイクをした。ファンデーションで少し、赤みが隠れた気がした。
何となく気になって、お姉ちゃんの部屋を覗いた。
お姉ちゃんの部屋はラベンダーの匂いがした。アロマキャンドルだった。あたしがあれを炊いたら絶対我が家は火事になるだろう。お姉ちゃんだから出来るし、お姉ちゃんだから「似合う」。
お姉ちゃんは布団の中で「ALICE’S ADVENTURES UNDER GROUND」と書かれた本を読んでいた。つまり「不思議の国のアリス」のオリジナル(原語版)だ。豪華な装丁だったが、そんなに高いものではない、とお姉ちゃんから聞いていた。
「お帰り」
鈴のようなお姉ちゃんの声で、あたしはまたドキッとした。ユーダイさんは、毎日ドキッとしてるのだろうか、と胸の隅で考えた。
「元気?」
「だいぶ良くなった。たいしたことじゃなかったんだけどね、全然」
本を閉じて、起き上がる。最近、またおなかが大きくなったみたい。そのたびにお姉ちゃんの表情も柔和になっていくみたい。
お姉ちゃんは、お母さんになるんだ──
「妊婦さんはからだがデリケートだから大事にしなくちゃいけないって、家庭科の保田も言ってたよ」
あたしは保田先生が嫌いだ。女って感じがして嫌いだ。一言で言えばヒステリックだ。
「そうなんだけどね。嫌だな。ちょっと体調悪かっただけなのに、みんな大げさ」
「だけど、大事にしなくちゃいけないの。お姉ちゃんが無理して、みきちゃんかよしきくんかしらないけど、その子まで体悪くなっちゃうでしょ」
美紀ったら決め付けてる。と、お姉ちゃんはくすくす笑った。鈴が笑った。
と、隣の部屋、つまりあたしの部屋で携帯が鳴った。あたしは慌てた。丘崎かな──
慌てて部屋を出て、電話を見る。
着信:健一
通話ボタンを押すと、そのままあたしはベランダに急ぎ足になった。お姉ちゃんがちらりとこっちを見た。お姉ちゃんには、わかっちゃうのかな?
健一からの電話はたわいない内容だった。明日の宿題終ったか、とか、高木先生から電話があってヤバイとか。だけど明日も遅刻しそうだな、とか。
たわいない内容だった。「あの指輪はめてる?」とか。

よく、少女漫画やドラマなんかで。
あるじゃない?親友の恋人とっちゃったとか、親友の好きな人と付き合っちゃった、とか。
それで泥沼劇が広がる。
でもさ、丘崎は男なわけで。あたしはその点、女なわけで───
あの公式には、あてはまらないと思うんだけど。

大体、あたしは、丘崎が健一のことを好きだって、はっきり知らない…

お昼ご飯はいつも二人で。図書館前の中庭で。
健一の「美紀」という呼びかけを無視するようにして、あたしは中庭に急いだ。
いつもと同じように丘崎と、話したかった。
中庭でお弁当を開けて待ってると、丘崎がやってきた。
日光が当たって、丘崎はやっぱり可愛い。
それから、一言、長いまつげを落として「健一が、探してたよ」とだけ言った。
「美紀のこと、探してたよ」
あたしは何も言えなかった。
「僕、今日お弁当忘れた」
「売店でパン買いなよ」
「売り切れてた」
「あたしの、分けてあげるよ」
「健一が、探してたよ。美紀と、食べたいんだと思う」
そう、とあたしは、多分聞こえないくらいの小さな声で言った。あたしは多分青ざめていた。
「キスした?」
丘崎は、何気なく聞いた。
あたしは息が詰まった。
「してない、したんじゃなくって…」
されたのよ、とあたしは言いたかった。目頭が熱くなっていた。
「受け入れたんだ」
僕は多分しないだろう──そう言っているようだった。
プラトニックじゃなくて。
あたしにも、あの時なんで健一からのキスを受け入れたのかがまるでわからず、いつのまにかあたしたちは付き合うことになっていて、多分あたしは、お姉 ちゃんとユーダイさんのことでゴチャゴチャしていたから──もう別れる、付き合ってるのかさえ曖昧だけど別れる。あたしはまだまだ恋愛なんて出来ないん だ、あたしは丘崎と友達でいられればそれでよくって───喉の辺りでそんなことを考えた。
丘崎は言った。
「おめでとう」
何におめでとうなのか、あたしにはさっぱりわかんなかった。あたしと健一が付き合うってことに対して?何に対して?それともあたしのファーストキス?何に対して?
もう、ボロボロボロボロ涙が出てきてしまった。涙はお母さん自慢の粉ふき芋にかかって、それでもあたしはボロボロボロボロ泣いていた。
「ごめんね」
丘崎は微笑んでいた。
お姉ちゃんみたいに微笑んでいた。
「ごめんね」
丘崎は微笑んでいた。
だけどちょっと目が赤かった。
「ごめんね」
もう一度言おうとした「ごめんね」を、丘崎はあたしを抱き寄せることでふさいだ。丘崎の胸は、温かかった。
「僕は大丈夫──僕は、男だから───だから、これからも友達だから───」
声が震えていた。
あたしは、申し訳なさでいっぱいになり、それから、また泣いた。
周りの人が、不思議そうにあたしたちを見ていたが、あたしは構わず泣いた。

教室に戻ると、少し不満気な顔の健一が、泣き腫れたあたしを見て、やさしそうな顔になった。
健一はあたしの頭をちょっと撫でると、教室の外にあたしを連れて行き、そこで自分のお弁当を広げた。タコさんウィンナーが入っていた。教室の皆はあたし と健一を冷やかして、宮田が「丘崎くん、失恋?」と言った。それは丘崎が健一に振られた事を指摘しているのか、それとも、あたしと丘崎が恋人同士だと思っ ていたのか。
健一はウィンナーを一つあたしの口に入れて、それからキスした。
あたしはそのとき、とても健一が好きになった。
少し、お姉ちゃんとユーダイさんのことを思った。お姉ちゃんはユーダイさんとキスしたとき、どんな気分だったんだろう。
あたしは「多分」、と想像した。
多分、お姉ちゃんの体はユーダイさんで満たされたことだろう。

次の日曜日の朝、健一との約束に行くためにいつもより張り切って「おめかしさん」になっていると、ユーダイさんが現れた。
ユーダイさんの右手にはコムサの袋があった。あたしはそれを受け取った。
「高かったでしょ?」
「死ぬかと思ったよ」
中を覗いてあたしはまたまた驚いた。普通のスカートと、ちょっとしたドレスがあった。
ユーダイさん、こんなにあたしの気をひいてどうするつもり?
「ユーダイさん、死んだでしょ?」
「うん、死んだね」
「どこにこんなお金があるのよ、大学院生って儲かるの?」
ユーダイさんは笑った。
「勉強は、またいつでも出来るからね」

あたしは、家を出る前にドレスを着てみた。「結婚式はこれで出て欲しいんだ」と、かいわれからごぼうくらいには昇進したユーダイさんが、鼻の下をかいて笑った。
そういうことをするから鼻の穴が大きくなるのよ?
黒のドレスは、とっても綺麗だった。
あたしの髪の毛をお姉ちゃんは結ってくれて、「美紀、似合うじゃない」とおでこをコツン、と突付いた。それから、ユーダイさんのすぐ近くで「ありがとう。無理したでしょ」と囁いた。囁きは鈴の音。

あたしはちょっと考えた。
結婚式には、健一を呼ぼうか。丘崎を呼ぼうか。
だけど丘崎に聞けば「僕は都合が悪い」とでも言うに決まっていた。
だからあたしは多分どちらも呼ばない。
健一は「いきたかった」と言うだろう。だけど呼ばない。

あたしにとって、丘崎は相変らず大事な奴だった。進路の話をするときは先ず丘崎に話した。教室でも、始めの頃は少し健一に遠慮したけど、あるとき健一に 「どうしてあたしが好きなの」と聞くと、照れてそっぽ向きながら「美紀は丘崎と、仲良かったから」と言った。ホモの噂がある丘崎と普通に付き合えていたか ら「いい奴だなぁと思って尊敬した」と言った。あたしはその時から、丘崎と普通に話すことを再開した。
付き合えば付き合うほど、健一はいい奴で、最近めっきり健一にのめりこんでるあたしに気がつく。たまに、「だから丘崎は健一が好きだったんだ」と感じて胸が痛くなり、だけどそれはあたしの胸にしまっておくことだと思って、馬鹿正直は発揮しない。

結婚式の準備が順調に進んでいる。
お姉ちゃんのウェディングドレスは、胸元に花が飾ってあってとても綺麗。そして勿論、おなかが目立たない作りになっている。ごぼうのユーダイさんは、 「どうせレンタルなら、高くていいやつ着たほうが」と言って、お姉ちゃんを見てにんまりしていた。いやらしい。と思いながらあたしは、ユーダイさんから 貰ったドレスを着る日を楽しみにしている。

携帯電話の着信を最近、「てんとう虫のサンバ」にした。鳴ると「もうすぐだね」と一言お姉ちゃんに言ってから電話に出ることにしている。お姉ちゃんは「また…」と言って笑う。
かけてくるのは大抵健一かアキで、丘崎からかかってくることは少ない。健一はたわいもないことを言い、アキは8つ年上の彼の愚痴をこぼす。そして近頃で は「で、どうなの?捨てた?」と聞いてくる。早くあたしと「対等」な会話がしたくてたまらないらしい。だけど健一はまだまだ、そんなことは考えてないみた いだった。あたしもそれでいいと思っている。ホッとしている。そしてそのたびに「やっぱり、丘崎は見る目がある」って、尊敬しなおす。

遅刻が多くて高木に叱られてる健一を待ちながら、あたしは丘崎と並んで立っていた。
「もうすぐだね。お姉さんの結婚式」
「うん。我が家はてんやわんやだよ」
「おめでとう」
「あたしに言われたって」
「美紀は最近綺麗だ」
「何よ、突然」
丘崎は少し笑った。
「恋愛の力はすごいね」
あたしは、うまい言葉を返せなくて、肘で丘崎のわき腹を突付いた。傍から見たらあたしたちは恋人同士に見えるのかもしれない。
「ユーダイさんの言ってた『大人』って意味だけど─」
丘崎は目を伏せて呟いた。
「僕はまだわからないけど──きみはどう?」
あたしも、目を伏せた。上履きが汚い。洗わなくちゃ。
「わかんない」
丘崎は足を組みなおした。
「そうか…恋人が出来ればわかるっていうようなものでもないんだね」
「当たり前じゃん」
あたしは笑った。扉が開いて、指導部の矢作先生が出てきて、慌てて口を閉じた。
矢作先生はあたしたちをじろりと見て「早く帰りなさいよ」と言うと、丘崎をまた見て廊下の角を横切っていった。
「僕…最近思うんだけど」
少し声を潜めた。
「僕…ひょっとしていつか、キスくらいはするのかもしれない」
あたしは驚いた。
「そうしたら心が大人になるかな」
目を上げて、隣の丘崎を見る。やっぱり綺麗で、ほっぺが赤いのは可愛い。
「短絡的だぞ。らしくない」
「そうかな。これでも僕は考え詰めたんだけど」
「あたしとしては、丘崎が探求してる、『真に精神だけで成立する愛情』を実現して欲しい」
そう言うと、丘崎はふっと笑った。
あたしも笑った。
どうするのかな。丘崎は。
だけどそれは、どうでもいい問題のような気もしていた。

釈放された健一があたしたちの頭を一回ずつ『漢字の学習』で叩いて行った。「課題、『漢字の学習』10ページ。俺は小学生かよ」
後ろから現れた高木先生が、「小学生はこんなに遅刻しないっ」と、黒板消しで健一の頭をはたいた。
白い粉がパフッ、と舞って、健一が咳き込んで、あたしたちは今度こそ、大きな声をあげて笑った。

パンク・ロック

1985年、ひとつのロックバンドがメジャーデビューした。
ファーストアルバムの名前は

「THE BLUE HEARTS」

彼らは解散の数年前まで歌い続けた。
やさしいパンク・ロックを歌い続けた。

[Disc1.4月]

#1 「イブキベアツコ」

<淳子>は<アツコ>と読むのだ。一か八かの勝負で勝った。私は心の中で胸をそっとなでおろす。

「子どもたちをびっくりさせるにはね、会う前に子どもの名前と顔を一致させておいて、いきなり名前を呼んであげるんだよ。そうすると大抵の子どもはびっくりしてね、『先生なんで僕の名前知ってるの』なんて言うんだ」

教育実習に行く前に教授がくれたアドバイスを、私は今、試している。実習の時はこちらが用意するより前に、クラスがお膳立てしてくれちゃっていたから、その言葉を実行することは出来なかった。
そして、初めて正式な教員として教壇に立っている私は、今朝何度も頭の中でシュミレーションしたことを、台本を棒読みする要領で実行していた。

「それじゃ自己紹介してください。名前と、自己PR。はい、鈴木くん」
「いきなり俺?マジで?」
まだお互い馴染んでいない生徒たちが、どっと笑う。
中学校では教授が言ったような可愛らしい反応はなかったけれど、ランダムに当てていくという方法は成功したようだった。
「百合さーん」
「マドカ百合です。…よろしくお願いします」
<円 百合>で<マドカ ユリ>。出来るだけ生徒たちを見たままで名簿に読み仮名を書いていく。
苗字で呼ぶ生徒と、名で呼ぶ生徒を出来るだけ混在させた。最近は凝った名前の子が多いから苗字で呼ぶことが多かった。けれど、彼女を呼ぶ勇気が私には出なかった。

<伊福部 淳子>

まず、苗字が読めない。イフクベ?イフクブ?
そして、名前の読み方も二通りあるのだ。<ジュンコ>と<アツコ>。
けれど、彼女を呼ぶのを最後にしては、生徒たちに見抜かれる。「ああ、先生は彼女の名前の読み方わからなかったんだ」。
順調に来ていただけに、それは避けたかった。彼女の名前は終盤に、けれど、決して一番最後には呼ばない。名簿を渡された時から決めていたけれど、最後まで<ジュンコ>か<アツコ>か、迷った。
そして、勝負に出た。

「次、アツコさーん」
「はい、イブキベアツコです」
<アツコ>で当たりだった。勝負に、勝った。そして<伊福部>で<イブキベ>。私は何でもないかのように「よろしくねー」と言いながらそっと名簿に読み仮名をつける。生徒から目をそらさないで他の作業をすることは、どうにも難しい。けれど、
「それだけ?」
と、つい言ってしまった。
中学1年のクラス自己紹介。初めての子もいれば初めてじゃない子もいる。大抵の子は、名前を言った後に趣味を添えたり、「よろしく」と言ったり、はしゃいでいる男の子は一発芸なんかもやってみせる。しかし、イブキベアツコは違った。

「はい、イブキベアツコです」
そう言ってすぐ、彼女はすぐに席に着いたのだ。「よろしく」も「お願いします」も、頭下げたりすることすらなく。
直角に座っていたブロックで出来た人形が、ピアノ線で持ち上げられて直線になり、また直角に戻るような数秒間。

「それだけ?って何ですか」
イブキベアツコの視線はまっすぐに私の目の中に刺さるように入ってきた。小学校を卒業したばかりとは思えないような、大人びた眼差し。私はつい目をそらしそうになる。けれど目をそらしたらきっと「負け」。
ぎこちない作り笑顔のまま、私はイブキベアツコに話しかける。
「ほら、趣味とか、特技とか、色々あるじゃない?せっかくなんだから、先生も知りたいし、皆だって知りたいよ」

ああ、さっきまでうまく流れていた空気が滞り始めている。和んでいた空気を壊したのは、イブキベアツコか、私か。
胸の中にはもやもやと黒い塊が渦を巻いている。この空気を打開したい。「初任の先生」でも、私は「先生」なんだ。

イブキベアツコは、ため息を小さく漏らして、また立ち上がる、ブロック人形。
「趣味は―――特にありません。特技も別にありません」
そして直角に戻る、ブロック人形。
ただ瞳の奥にある思いだけは、他の人よりもずっと強く。

私は崩れ始めた空気を変えようと、できるだけ明るく努めた。
「趣味も特技もこの3年間で見つかるよ。じゃ、次、梶本くん」
「梶本タケシです。趣味サッカー。終わり」
「はい、伊藤亜由美です。よろしく」
「脇田健吾です。バイオリン習ってます」
崩れた空気を立て直すことは出来なかった。皆どことなく、私でもなく、指名されたクラスメイトでもなく、目の前に置かれた新品の教科書たちでもなく、違うところを見ていた。
イブキベアツコを見ていた。

#2 「新人」

それは入学式より遡る。顔合わせのような、新任の自己紹介のような酒の場で、こっそり年配の社会科の女性教員から耳打ちされた。
「あなた、新任なんだから。そんな大学生みたいな服着てきちゃダメよ。目を付けられるわよ」
彼女の服装は、花柄のブラウスに茶色のカーディガン。それにロングスカートだった。
私も同じような服装をしていたけれど、カーディガンは黄緑で、少しだけ柄の入った膝丈スカート。ちょっと違うだけだった。他の女性教員もそんなに堅苦しい服装はしていなかったし、私は会場に入った時、それで問題ないと思ったのだ。
でも違った。
私と同期で入ってきた理科の下井明宏は、スーツでバッチリ決めた格好だった。会が始まるより30分前には会場前にいた彼は、開始の10分前に来た私の格好を見て少し驚いていたようだった。
私の服装も、行動も、「新人」のあるべき姿ではなかったのだ。
決してそのことで大声で叱られたりすることはなく、「大学出たばかりの、山崎琴子さんです。ハイ、山崎先生早速担任持つからね」と、進行係の技術家庭科の木下先生に明るく紹介された。けれど、実際にその席の人たちが何を思っていたのかなんてわからない。例の女性教員の耳打ちは親切以外の何ものでもなかったんだろう。
けれど、今年入った新任は私と下井くんの2人だけで、下井くんの後に私が紹介されたものだから、気まずかった。

場が盛り上がってきたところで(と言っても、私と下井くんはカチンコチンに固まっていた)、私の指導に当たる国語の北内先生が「で、山崎先生はどんな風にやってくの?」と、聞いて来た。40歳も過ぎて、そろそろ「ベテラン」と呼ばれる年齢に差し掛かっている。
どんな、と言われても、困った。自分の考え方に自信なんて全然なかった。

社交辞令。
「どんなって、まだハッキリとは…。どんな授業がいいんでしょう?」
社交辞令。
「そんな難しいこと言わないで。国語なんだから自由な発想でいいんだよ。あるなら言ってごらんよ。アドバイスできることあるならしておくからさ」
社交辞令。
「自由な発想ですかあ、じゃあ」
社交辞令終了。
「体育館でわーっと言いたい放題叫ばせたり、叫ぶ詩人の会みたいに、自分の言葉を叫ばせたり、生徒の素直な言葉を記録していけたらって思ってるんですけど」

北内先生の眉は、明らかに動いた。

「それはまずいよ」

近くで聞いていた他の教員も、遠慮がちに「斬新ね」「ホントに自由な発想」と、直接的な言葉を避けて、私の「発想」に眉をひそめた。

「それはまずいよ、いくらなんでも。小学校ならまだしも、中学生なんだから。高校受験のことだって考えていかなくちゃいけないしさ」
北内先生はそれまでの社交辞令の笑顔をひきつらせながら、真剣な眼差しで、間接的に私をたしなめる。
「いや、面白いよ。山崎先生の言っていることはさ。ウン、僕もね、そういう授業やってみたいよ。山崎先生だったら、そういうことも出来そうな気がするし。でもさ、やっぱ文法とか、中学で覚える漢字だっていっぱいあるしねえ、ホラ、漢詩だって」
北内先生は一生懸命取り繕っていたけれど、私は「言わなきゃ良かった」と、心で舌打ちした。
最初から、私にだって自信なんてなかったんだ。

社交辞令。
「あはは、やっぱりそうですよね。冗談だったんですけど、遊びじゃないですしね」
社交辞令。
「何、冗談だったのお?折角アドバイスしたのに」
社交辞令。
社交辞令。社交辞令。
社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令。社交辞令・・・・・

そのやり取りを1人笑ってみていたのが音楽担当の東先生だった。

「その冗談、面白いねえ」

初老のその先生は、白髪交じりの髪に似つかわしくないような派手なシャツを着て、短パンという異色な風貌だった。

「僕、山崎先生かわいいから好きだけど、それが冗談じゃなかったら、山崎先生のこともっと好きになるわ」

東先生セクハラですよ、と、何人かの女性教員に怒られながら、その人は笑っていた。
そして、「きみが音楽部の副顧問になると面白いわ」と、笑いながら言ったのだ。

#3 「音楽部」

最初のうちの国語の授業は無難に済ませた。自分の担当する1年3組と、1年2組、それに1年5組だ。1学年で6クラスある中の1年生の3クラスだけを担当した。それでも決して暇じゃない。
自己紹介、「自分について」の作文書かせ。最近読んだ本の感想。毎回のミニ作文。北内先生に指導されながら、相談をしながら、「北内流」の授業を展開していった。定められた45分という授業時間の中で私に出来ること、生徒たちに出来ること。たまに宿題。作文を書かせても、特別じっくり読むような時間もない。
それでも目を引いたのは、私が「副顧問」を務めることになった音楽部の生徒の作品だった。

『 俺について   一年五組 松田勇気
俺は将来、フジロックに出たい。カッコいいボーカルと、カッコいいギタリストと、カッコいいベースと、カッコいいドラムでできたバンドでフジロックに出たい。その前にフジロックを見に行きたい。だから先生、これ見たら俺に今年の夏フジロックを見にいけるだけの金をくれ。金をくれ、はウソです。
俺は小学校で、音楽の時間いっしょうけんめい歌を練習した。ボーカルがいちばんカッコいいと思ったからだ。でも俺はいつも通知表で、音楽は3だった。5は取れなかった。くやしいから中学校でもがんばる・・・』

その後に「俺の好きなバンド」「俺の嫌いなバンド」「俺の好きなボーカル」「俺の尊敬する人」と、羅列されていた。たまに字が間違っていたり、変なところで改行されていたり、読点の位置も変なところにあったりして、作文としては決して出来の良いものではない。けれど私はこの作文に花丸をあげた。

『とても素直な作文ですね。松田くんのことがよく伝わってきました。これからも素直な気持を持ち続けてくださいね』
というコメントを添えて。

そしてもう1人。私が読む機会のあった作文で、音楽部の生徒のものがあった。
タイトル『自分について』。私が黒板に書いたことを丸写しにしたタイトルだ。マツダくんとは対照的に改行やスペースの開け方、字の間違いなどなく、作文としては優秀なものだった。自分の出身校。自分の誕生日や血液型。性格の傾向。家族構成。親の仕事。それらがきちんと文章としてまとまっていた。けれど、私はとても退屈だと感じた。
彼女のデータは伝わってくるけれど、彼女の気持は伝わってこない。
名前は『一年三組 伊福部 淳子』。
イブキベアツコもまた、音楽部に入部した生徒だったのだ。

部活動は授業の終了した3時30分から開始される。
初めての部活の日、当然のようにあるのが自己紹介。4月は自己紹介ばかりの月だ。

まずは9月に引退する3年生。
3年3組エノキダ・リュウイチ。少し髪が茶色がかっていて、東先生に「榎田くん、春休み髪の毛染めたでしょ」と指摘されて笑っていた。彼が現在の部長らしい。
3年3組イトイ・ダイスケ。難関高校の推薦入学を狙っている、と言ってざわめかれる。後から聞いたところによると、その話の実現は決して難しいものではないようだった。ただ問題があるとすれば、エノキダくんと仲が良いことであると。
3年1組マツイ・ヨウコ。スカートは校則規定より短く、耳元に小さなピアスが見えた。こっそり後で本人に聞くと「制服検査の時に怒られるとマズいから、これ、シール」と言って、はがして見せた。私は何故か嬉しくなって、どこで売ってるか教えてもらった。そう。シールなら問題ないじゃない。
3年6組コジマ・ショウコ。エノキダくんと付き合ってるようで、エノキダくんが何か言うと、照れ笑いをしていた。うっすら塗られたファンデーションと、ピンクの口紅。マツイさんとお揃いの「ピアス」。
3年2組ゴトウ・マコト。特徴のない生徒に見えたが、指先にはマメがいくつも出来ていた。3歳の頃からピアノを習っていて、受験も音楽科のある高校を受験するとのこと。マメはピアノを弾き続けて出来たものだった。

2年生は、4組のキタザワ・ハルカという少女だけだった。その学年では昨年度末に揉め事が起きて結局残ったのがキタザワさん1人だけだったらしい。

そして、その揉め事の噂を聞きつけてか、音楽部に新しく入学したのはマツダくんと、イブキベアツコと、1組のキノ・ジュンジの3人だけ。キノくんとマツダくんは同じ小学校から上がってきて、仲が良かったらしい。

3学年合わせて、9人。
たったこれだけでやる「音楽部」の活動は何だろう。私には想像できなかった。音楽部とは別に「吹奏楽部」が存在しているからには、歌を歌うのだろうか、マツダくんは歌が上手くなりたいと言っていたし。けれど合唱するにはあまりに少ない人数である。
私がそんな疑問を抱いていると、東先生が私をみんなの前に押し出した。
「ハイ、じゃー、若くてピチピチの副顧問から自己紹介」
突然のことでびっくりしたけれど、4月は自己紹介の月。
私は、裾にレースをあしらったパンツに水玉のブラウスという姿で、9人の生徒と1人の先生の前に立つ。

新人でも、私は私のスタイルを崩したくなかった。

「こんにちは。山崎琴子です。イブキベさんのクラス担任、してます。マツダくんのクラスも受け持ってるね。担当教科は国語ですが、東先生に誘惑されて、音楽部にやってきました。先生1年生なので、至らないところ沢山あると思うけど、よろしくお願いします」

そう言って頭を下げると、エノキダくんが「コトコちゃん可愛い!」と声を出して、コジマさんに後ろから背中を蹴られていた。エノキダくんは「愛しいよりもいじめたいよりももっと乱暴なこの気持ちぃ」と言いながらわざとらしく倒れる。この学年は仲がいいんだな、と思った。同時に、2年生は何があったのかな、とも思う。
マツダくんが「先生、俺もコトコちゃんって呼んでいい?」と言うとキノくんも「俺も呼ぶ」と言う。
「お好きにどうぞ」
そのほうが私だって気楽だ。私は「先生」だけれど、「山崎琴子」でもあるんだから。

私が元通り、東先生の隣に行くと、東先生は2年生と3年生に向かって「それじゃ、新入生と新人先生の入部を祝って、レッツゴーだ」と、声をかける。

第2音楽室の準備室の扉をゴトウくんがさっと開けた。たった数メートルの距離を走って準備室に入り込む6人の中学生。そして、それぞれ大荷物を抱えて出てくる。
スタンドマイク。
ドラム。
ベース。
ギター。
アンプ。
そして元から置いてあった電子ピアノ。
すげえ、と呟くマツダくんとキノくん、呆気にとられる私に、表情ひとつ変えないイブキベアツコは、イトイくんがさっと並べた席に誘導されて座らされる。

マツイヨウコがスタンドマイクを手に取った。キタザワハルカがドラムのスティックを握り、椅子に座る。2本のエレキギターを肩にかけたのはエノキダくんとイトイくん。コジマショウコがベースを手にすると、ゴトウマコトが電子ピアノの前につき、最初の音を出す。アンプチェックは東先生。

ゴトウマコトの音にキタザワハルカがリズムを乗せると、第2音楽室はライブハウスになった。

[Disc2.6月]

#1 「イブキベアツコ.part2」

「伊福部」という表札の向こうにはそこそこ大きな家が建っていた。
チャイムを鳴らして「アツコさんの担任の山崎です」と、スピーカーに向かって話しかける。スピーカーから「どうぞお入り下さい」と声が聞こえてきて、門を開けると、きっちり手入れされた鉢植の花たちが私を迎えた。そこから玄関までのごくごく短い距離を歩くと、玄関が開いて、鮮やかに着飾ったイブキベアツコの母親が笑顔で「どうぞ中までお入りになって」と、私を間口まで招く。

今日ばかりは、新人の先生みたいなスーツを着てきた。学校を出るときに下井くんに「今日は先生らしい格好ですね」と言われた。嫌味な口調でもなかったけれど、嬉しくさせる言葉でもなかった。下井くんはいつもより、多少値がはってそうなスーツを着ていた。少し不似合い。けれど、いつもスーツなんか着ない私のほうがきっとずっと不似合いなのだ。

イブキベアツコの母親は間口で「ここまでで」と言う私を半ば強引に客間に招いて、お茶とお菓子を出した。本来いただいてはいけないものだけれど、断ると却って失礼だからいただく。お茶はいい温度で入れてあるし、お菓子だって高そうなものだ。
イブキベアツコの母親は「いつもアツコがお世話になっています」と懇切丁寧に頭を下げて、「アツコ、いらっしゃい。先生よ」と、廊下から階段の上に声を上げた。
家庭訪問は時間がそこそこ決まっていて、イブキベアツコの家は母親が専業主婦だというので早めの時間に設定してあった。だからここであまり時間を食っては、次の家にまわるのに支障をきたすのに。
「お母さん、結構ですよ。アツコさんも居づらいでしょうし」
けれど、イブキベアツコは階段から下りてきた。直線のようにまっすぐ立って、客間に入ってくる。その姿は、玄関の前に飾ってあった鉢植の花を思い出させた。ブロックを組むように、綺麗に並べられた植木鉢。雑草などまるで生えていなかった。
よく似ている。母親に、ではなく、植木鉢たちに。
イブキベアツコは、頭を下げると「どうもわざわざ」と言ってソファに腰をかけた。
イブキベアツコの母親は、笑いながら「この子ったら、愛想なくって、すみません」と言った。
「そんなこと」
私がイブキベアツコの母親の言葉をおべんちゃらで誤魔化そうとすると
「そんな嘘いりません」
打ち消すように、イブキベアツコが瞬時に言葉を放った。
「私、愛想悪いです。すみません」
相変わらずイブキベアツコは瞳を凝視してくる。こちらの真意を探るように。こちらを全て見透かそうとするように。幼い子どもが無意識的に大人の真意を探ろうとするのとは違う、意識的なその瞳。
イブキベアツコの母親は一瞬だけむっとした表情を見せる。けれどすぐにさきほどまでの笑顔に戻り、「ねぇ、この子ったら、先生にご迷惑ばかりかけてるでしょ?」と、その場を取り繕うように明るく振舞った。4月、初めてイブキベアツコに出会ったときの私のように。
今度は私が打ち消す番。
「いいえ、まったく迷惑なんか」
実際、もう少してこずらせてくれても良いくらいに、イブキベアツコは迷惑をかける存在ではなかった。課題はこなし、授業も真面目に受け、掃除も真面目に行い、愛想が良くないと言っても団体行動を乱すほどでもなかった。ライブハウスこと音楽部ではその歌声にマツダくんが彼女を1年生のボーカルに推した。9月の文化祭では1年生のお披露目ライブを行い、その後3年生の卒業ライブを行う。最後は全学年での合同ライブ。人数の都合上キタザワハルカは両学年のライブに出演しなくてはならなかったが、彼女はそれを文句ひとつ言わず受け入れた。そして、イブキベアツコもボーカルを担当することをひとことの文句もなく受け入れた。
「部活でもしっかりやってくれていますし。歌もすごく上手でびっくりしてます」
そう言うと、イブキベアツコの母親はくしゃくしゃに顔をほころばせた。
「まあ、そうなんですか。アツコ、やっぱりキタ中に入って正解だったわねぇ。あんな解放的な部活があるの、キタ中だけなんですもの」
「私とこの子、オペラやってるんです。でもアツコは若いんだから、もっとはじけたこと出来た方がいいと思って」
それまでの中で、いちばん嬉しそうな顔をしていた。

イブキベアツコは越境入学だった。それはイブキベアツコの住んでいる地域が学区の境にあり、イブキベアツコが普通に公立中学に進学すればいわゆる「ガラの悪い」生徒がたくさんいたから出来たことでもあったが、他にも理由はあった。
東先生が言っていた。
「お母さんのたっての願いでね。バンド活動が部活で出来る解放的な中学校なんて他にないからって」

授業ではどんな調子か、友人関係はどうか、といった、家庭訪問で言う当たり前のことを私はつらつらと述べていたが、イブキベアツコの母親は娘の文化祭にばかり頭がいっているようで、「曲は?」「必要だったら楽譜あげますわ、ウチ、たくさんあるものねぇ?」「それで?4ピース?3ピース?」といったことばかりを話しかけた。

――それは、私が話すことじゃない。

違和感が私を覆う。

――それは、イブキベアツコが話すことだ。

結局、15分の予定が30分の滞在となった。イブキベアツコは終始ソファに座っていたが、発言は、あの一度のみだった。あとは影のように、はつらつとした明るい母親の影法師のように、ただそこに居るだけだった。
イブキベアツコの母親は門の前まで娘をたずさえ私を見送った。
イブキベアツコの家が遠くなった頃、振り返ると、楽しそうに家に入っていくイブキベアツコの母親の姿と、玄関前に添えられた花のように立ち、こちらに視線を送り続けるイブキベアツコの姿が見えた。

イブキベアツコは、迷惑をひとつもかけない。
イブキベアツコが私に「かけて」いるものは
「問い」
だ。

#2 「ロック」

胃が痛いとはこういうことを言うのだ。
ある朝、目覚めたときに感じたキリリとした腹部全体の痛みで、そう思った。
初めて感じた痛みではなかった。教壇に立ってから何度か感じたことのある痛みだった。ちょっとしたストレス。疲労。そう言い聞かせて今までやり過ごしてきた。
けれど、胃が痛い。痛みを訴えるように、自然に涙が出てきた。
鎮痛剤を飲む。こんなのじゃ効かないことはわかってる。けれど仕事を休むわけにはいかない。「夜になっても痛かったら病院に行こう」。涙で赤くなった目を鏡で見ながら、声に出して言い聞かせ、再び溢れようとする涙を圧し止めるように蛇口をいっぱいにひねると顔にいきおいよく水をかけた。
大きなドットをあしらったワンピース。薄手のピンクのカーディガン。ストッキングなんかはかない。夏めいた今日はサンダルだ。「先生」になって3ヶ月目。新人だから、という理由での失敗が通用しなくなってくるなら、新人だから、という理由で服装を制限される必要はないはずなんだ。

私の服装は、私が決める。
これだけは、私が中学に入った頃からの強いこだわり。10年以上持ち続けてるポリシー。
ピアスなんてシールでもご法度だった。スカートの丈は長すぎても短すぎてもいけなかった。靴下は白、くるぶし上で三つ折。みんな同じブランドの白い靴。カラーリップはもちろんのこと、香りつきリップも許されなかった。リップクリームは荒れ防止のメンソレータムだけ。リボンの長さの比率も、髪の毛の結び方も、ゴムの色も決まってた。
小学生の頃は許されたことがどうして中学校では制限されるのかわからなかった。
私の小さな抵抗は、セーラー服の中の下着を可愛くすること。
水玉。キャラクター。イチゴ柄が可愛い。たまに奮発してレースつき。ピンク。黒。ボーダー。
学校に行くのが億劫な日は、特に一生懸命選んだ。
「今日はこの下着だから楽しく学校に行けるんだ」
自分に言い聞かせて、言い聞かせて。

言い聞かせて、言い聞かせて。職員室に入って、まずカッターシャツにネクタイの下井くんが眉をひそめ、メモ帳に走り書きをすると、私にさっと手渡した。
「派手過ぎ」
それだけ。
口で言えばいいじゃない。
そう思えば胃が痛む。
朝の職員会議。
目線はときに私にうつる。そして北内先生にもうつり、東先生にもうつる。
「新人の指導不足」
そんな言葉が会議の狭間に頭に浮かび、胃がますます痛む。

職員会議が終わって、教室に向かおうとすると、北内先生に呼び止められた。
「山崎先生、ちょっと、それは先生として示しがつかないからさあ」
曖昧な言い方。
私の胃にはきっと別の生き物が住んでいる。その生き物が私の胃を食い荒らす。
吐き気。
耐えて。
「今日、天気良かったから、ついはしゃいじゃって。申し訳ありません、先生にまでご迷惑かけてしまいまして」
明るく務めて、教室へ。
食い荒らされて血まみれの私のお腹。
吐き気。
耐えて。
耐えて。
舞い戻って。
職員用トイレで、吐いた。

さっとメイクを直してトイレを出ると、東先生がいた。
「先生、ごめんなさい。私の服装のせいで」
言いかけた私の頭を撫でて、
「僕、ますます山崎先生気に入ったわ。その年でロックしてるの、歌手と山崎先生くらい」

#3 「音楽部.part2」

関わったことのない部活の指導に疲れる若い中学校教員は多い、と今朝の新聞で読んだ。が、私の場合、東先生からアンプチェックの仕方や、電気関連の危険性を教えられるだけに留まり、「あとは好きにやらせる部だから」という言葉で救われた。運動部に入ったことがないという下井くんは身長の高さだけでバレー部に配属されて毎日大変そうだ。その「お情け」みたいな感情が、下井くんの私に対する「嬉しくない態度」への反発心を抑えていた。

9月の文化祭に向けての準備は着々と始まっている。
4月・5月は1年生にギターやドラムを触らせたり、ゴトウくんのピアノに合わせて歌ってみたり、基本的なコードだけの曲を演奏したり。
その中で、5月の末に決められた。1年生の発表の配分。
ギター:キノ ジュンジ
ベース:マツダ ユウキ
ボーカル:イブキベ アツコ
ドラム:キタザワ ハルカ(2年)
「歌が上手になりたい」と作文に書いたマツダくんは、最初「ボーカルがやりたい」と言っていたけれど、イブキベアツコの圧倒的な歌唱力に打ちのめされたらしく、最終的には彼女を推薦する立場にまわっていた。その次には、女の子ながらに低音のベースを激しくかき鳴らすコジマさんに憧れたらしく、「ベースやりたい」と主張した。彼の意見はころころ変わる。
キノくんは最初からギターを希望していたし、人数の都合上誰もいなかったのでドラムはキタザワさんに自然に決まった。「9月過ぎたら誰かに伝授していきます」と言って引き受けた彼女であった。

曲は各学年3曲。1年生はそのうち最初の1曲を「ザ・ブルーハーツ」の「未来は僕等の手の中」にすると決まっていた。それは伝統的なことらしい。残り2曲は自由に決めて良かった。自分たちで作っても良かった。3年生も毎年必ず演奏するのが、同じく「ザ・ブルーハーツ」の「終わらない歌」。そして最後に全学年で演奏するのは「TRAIN-TRAIN」であると決まっていた。
仲の良い3年生はもう他の曲も決めているらしく、授業が終わるとすぐに第2音楽室に飛び込んできて練習を始めていた。折角の女性ボーカルだから、と、「JUDY AND MARY」から1曲。「ドキドキ」。どちらかといえば古典的な曲である。私も好きな曲だったから懐かしさではしゃぐ。たいして音楽に詳しいわけでもないけれど、勝手に口出ししてしまう。そこは、もっと切なさ出すんじゃない?とか。学生時代に戻ったみたいで楽しい。もう1曲は今エノキダくんとゴトウくんが中心になってオリジナル曲にするつもりらしい。歌詞はマツイさんが考えている。

ところが1年生は「課題曲」以外決まっていなかった。
マツダくんは次々と自分の好きな曲を挙げる。そしてコード表を見ては挫折。先輩であるコジマさんにも「それは2ヶ月ちょっとじゃ無理」と指摘される。「フジロックに出たい」と堂々と作文に書いた彼は、最近始まったばかりの声変わりと一緒に心の中も変化を遂げつつあるのかもしれない。「北内流」でたまに出す作文の課題で、最近彼の言葉は迷走し続ける。
キノくんはマツダくんと一緒にコード表を見ては、とりあえず音を鳴らしてみている。そして、すぐに挫折するマツダくんに「何でだよ」と文句をつける。入ったばかりの頃仲が良かった2人は、今ではすぐに喧嘩腰だった。
マツイさんが、私への誕生日プレゼント、と言って、シールピアスを渡しながらこっそり耳打ちをする。
「ああやって、今の2年生、どんどん分裂してったんだよね」
関係が固まるのか、崩れるのか。それが決まるのがこの時期なのだという。
マツイさんはたまに私に「その服どこのブランド?」とか「パーマかけたほうが可愛いよ」と話しかけに来る。そういう時、たいてい彼女の友人のコジマさんはエノキダくんと話をしていて、ああ、中学校の頃の友達関係ってこんなかんじだったっけ。そんな感傷に私を浸らせる。

そして、イブキベアツコは、全くと言って良いほど自分から曲を選ぼうとしなかった。たまに楽譜を大量に持ってきて、他の人たちを驚かせるくらいだった。エノキダくんやイトイくんが「これ、超レアじゃん」とはしゃぐほど。そして、みんなが曲選びに必死になっている間、彼女は第2音楽室の片隅に椅子をひとつもってきて、耳かけヘッドフォンをかけると、窓枠に肘をかけてもたれるようにしてMDウォークマンを聞いていた。雨の日も、晴れの日も、彼女はそうしていた。
彼女は迷惑をひとつもかけていなかった。けれど、協力もしていなかった。
窓際で13歳の少女が聞いている曲が何なのか。それに関心を持たない人はいなかっただろう。けれど、その質問を拒否するように、彼女を包む空気のドアにはカギがかけられていた。その部屋に入るにはカギを壊すしかないように思えた。けれどそうすれば、同時にイブキベアツコすら消えてしまうような気がして、私は何も言えずにいた。

その部屋を叩き壊したのはマツダくんだった。6月も終わりごろになると、楽譜を見ても集中が続かないようだった。
イブキベアツコがもってきた楽譜の中から、キノくんが「これいいんじゃない?」と1つの曲を見つける。「ベースもあんまり難しくなさそうだし。ギターもそんなに複雑じゃないや」。マツダくんはむっとした顔で「カッコ悪い」と言う。するとキノくんもむっとした表情を見せて「でもカッコいい曲選ぶと、ユウキが弾けないって言うだろ」と反論した。その様子をチラチラ見ながら3年生は曲作りをしている。キタザワさんは何も言わずに楽譜を見ていた。

マツダくんは唐突に楽譜の束に背を向けると、第2音楽室のすみっこでMDウォークマンを聞いているイブキベアツコの前に行った。ヘッドフォンをとりあげる。床にたたきつける。カタンという音とともにヘッドフォンのアルミ部分が少し欠ける。破片が私の足元に飛んで、素足に当たった。少しだけ血が出る。マツイさんが眉をつりあげてガタリ、と席を立った。彼女が「マツダ!」と言うのとほとんど同時にマツダくんのかすれ声が第2音楽室に響いた。
「一人だけ何してんだよ!あの楽譜持ってきたのお前だろ!歌が上手いからって、いい気になんなよ!」
イブキベアツコは、一瞬だけ目を大きくして驚いたが、すぐにいつもの無表情に戻る。そしてマツダくんの目の奥を見ようとしていた。マツダくんはその反応が気に食わなかったらしい。イブキベアツコの右手をつかむと、椅子から引き離し、イブキベアツコの体が床を叩きつける。膝の上に置かれていたMDウォークマンが、カタン、カタン、と、楽譜の束に向かって飛んだ。散らばる楽譜の束。
キノくんが「ユウキ!」と、マツダくんの肩をつかむ。走りかけたエノキダくんを抑えたのはイトイくん。「騒動広げてどうすんだ」。コジマさんはそれを見て肩をすくめる。
マツダくんは怒鳴り続けた。
「お前歌が上手いからちょっと練習すりゃいいかもしれねえけど、俺たち初めてなんだよ!自分勝手だろ!」
肝心なときに東先生はいない。私はとりあえず「マツダくん、もうやめて」と言って「あんただって先生ならもっとちゃんと指導とか注意とかしろよ」と言い返されるだけだった。音楽部に来ることで少しおさまる胃の痛みがまた強くなる。
「ツライ」というのは、こういうことなんだ。返す言葉も見つからず、私はイブキベアツコを起こして「大丈夫?」と聞くことしかできなかった。イブキベアツコの白い陶器のような頬に擦り傷が少し出来ていた。けれど、相変わらず無表情を保っていた。
そして「大丈夫じゃないのは、先生じゃないの?」と、問い返す。

攻撃される側にも理由はあり、攻撃する側にも理由はある。そのどちらも、大切にしたいと思っていた。生徒の問いかけには真摯に答えていきたいと思っていた。だというのに、今、私は、誰の問いにも答えていなかった。
ただ、自分の心を閉ざし、「先生」のような言動をしているだけだった。

吐き気。

胃を一気に食い荒らす生き物。

私は、「ごめんなさい」という言葉とともに、第2音楽室を飛び出すと、いちばん近いトイレで、吐いた。今日の給食も全て吐いた。それでも吐いた。胃液と一緒に出てくるのは嗚咽だった。

私は、「サイアクなセンセイ」だ。

#4 「『ある晴れた日に』」

私がトイレから出ると、マツイさんが、扉の前で待っていた。
一生懸命、笑顔を作りながら「ごめんね、逃げ出しちゃって」と言いながら、私は、涙も、声の震えも隠せなかった。
マツイさんは、胸ポケットからポケットティッシュを取り出し、手洗い場で少し濡らすと、さっきヘッドフォンの破片が当たった傷口にあて、乾いた部分で水っ気を拭き取ると、同じく胸ポケットから取り出した生徒手帳からバンドエイドを取り出して、貼った。
「コトコちゃんの足、綺麗なのに。バンドエイド貼ってカッコ悪くしてごめんね」
そう言いながら。
私は、「そんなことないよ。ありがとう」と言いたくてたまらなかった。けれど言葉は喉につかえて、嗚咽だけがこぼれた。

30分くらい経っただろうか。
私とマツイさんが第2音楽室に戻ったときには既に騒動はおさまっていた。
そして、マツダくんが、それまでイブキベアツコが座っていた椅子に顔をつっぷして、えぇん、えぇん、と、幼子のように泣いていた。その声は変声期の所為でかすれていたけれど。
イブキベアツコは、さきほど倒された床に座り込んだまま、そのマツダくんをじっと見ていた。キノくんは再び楽譜に目を向けて、エノキダくんとコジマさんは姿を消していた。イブキベアツコの頬にもバンドエイドが貼ってある。マツイさんがそうしたのだろう。私よりもずっと対応が早かった。
私は、深呼吸をすると、頭を下げて、「逃げ出してごめんなさい」と、だけ言った。
五線譜ノートに書き込みをしていたゴトウくんが「仕方ないですよ、あれじゃ」と、こちらに顔も向けずに言った。イトイくんも、五線譜ノートを見ながら「あのテのは毎年恒例」と少し笑った。
東先生は、これまでも、こういう状況を乗り越えてきたのか。
私は感嘆し、自分を恥かしく思った。
私は、結局、自分の保身しか考えていなかったんだ。

泣き続けるマツダくんを、ずっと見つめていたイブキベアツコが、口を開いた。
「ごめんなさい」
キノくんが、楽譜から少し目をそらしてイブキベアツコを見た。
「いい気になってるつもりじゃなかったわ。でも、私、特に好きな歌も、曲もなかったから」
「マツダくんと違って、歌いたくて部活に入ったんじゃなかったの」
「ママに言われたから入っただけだったの」
最後の言葉の、語尾が、少し震えた。
イブキベアツコを覆っていたブロックが、崩れ始める。

東先生の言葉を思い出す。
『お母さんのたっての願いでね。バンド活動が部活で出来る解放的な中学校なんて他にないからって』

「解放的」な中学校に、「ママに言われて」越境入学し、「ママに言われて」音楽部に入った、13歳の少女。

キタザワさんは、イブキベアツコのMDウォークマンを、少し欠けたヘッドフォンで聞いていた。
「ある晴れた日に」
そう、呟いて、私を見上げた。私はキタザワさんからヘッドフォンを受け取ると、耳にかけた。

耳の中に響いてきたのは、オペラ「蝶々婦人」で有名なアリア「ある晴れた日に」。
アメリカに帰った夫を待ち続ける幼い妻。本国で妻をもうけているとも知らずに、夫が日本に帰る日を信じ続ける蝶々婦人。
ある晴れた日に、高らかな声で「夫は帰ってくる」と海を眺めて歌う蝶々婦人。

13歳の少女が聞き続けていたのは、この曲だったのだ。

私の口が、自然に動いて
「オペラ、好きなの?」
と、言っていた。
彼女の部屋はボロボロに壊れていたけれど、彼女は消えたりしなかった。ただ、そこにいた。
「わかりません」
言葉は震えたまま。
「来月、ママと入ってるオペラサークルで、発表があるんです」
また、「ママ」。
「だから、覚えていかなくちゃいけなくて」
マツダくんは、泣きはらした目でふりむいて、ガラガラになってしまった声でイブキベアツコと向かい合った。
「歌、嫌いなのか」
「わかんないわ」
せきとめられていたものが、溢れ出した。強い瞳はマツダくんを見るわけでもなく、私を見るわけでもなく、ぼろぼろ涙を流しながら、これまでにないくらい強い口調で、問いかけた。
「好きなのか、嫌いなのか、わかんないわよ。どうして好きと嫌いしかないの。私は、わかんないのよ」
息を切らして、言い切ったイブキベアツコを、『ある晴れた日に』、その曲と裏腹に曇った空から差し込んだ太陽が、少し照らした。
うっすらと床に影法師が出来る。
その影法師は、イブキベアツコ自身の、影法師。

#5 「音楽部.bonus version」

騒動から1週間経って、1年生の曲目が決まった。1つは最初にマツダくんが「これがいい」と言った曲。ベースコードは非常に複雑だった。それを「私がベースやるから、マツダくんが歌えばいいわ」と、イブキベアツコが言った。マツダくんはびっくりしていたが、「マツダくんが、この歌が好きなら、歌えばいい」と、イブキベアツコは返した。
「俺、歌下手じゃん」
「練習が足りないだけよ」
キノくんが「ユウキはさぁ、すぐ諦めるから上達しないだけだって」と、フォローを入れる。真面目にギターを弾き続けたキノくんの腕前は、エノキダくんたちのレベルに近づいていた。
もう1曲は、「ある晴れた日に」。それはキノくんの提案だった。
「イブキベ、どうせ来月発表あるなら一石二鳥じゃん」
「アリアよ?」
そう問いかけるイブキベアツコの表情は以前よりも少し豊かになっていた。マツダくんが「ロック風にアレンジすれば」と言うと、キタザワさんが「考えてみる」と言って、楽譜を見ながらスティックで机を何度か叩き始めた。

3年生の練習も順調に始まってきた。オリジナル曲は、五線譜ノートを3冊潰した挙句に「JAMって、そこにマツイが歌を乗せてく」ことに決まった。

練習は時間別。最初1時間を3年生が楽器を使って練習。その間1年生は他の楽器で代用しながら廊下に出て練習。次の1時間はその逆。今年は2年生の発表がないから、と、部活に利用できる2時間30分のうち30分は「TRAIN-TRAIN」を練習。
メインボーカルはマツイさん。サブがイブキベアツコ。ギターやベースの数が限られているので、途中で3年生と1年生は交代しながら、空いている時にバックコーラスを入れる。キノくんはドラムにも興味を示して少しだけキタザワさんを手伝う。
いつ交代するか、誰がどこでどうするか、たまに口論しながら練習は進む。

東先生はその様子を満足気に見つめる。
「いいねぇ、こいつら」
自分がやりたいことを、自分が本当に好きなものを探りながら。
第2音楽室が奏でる音は、私に力を与えた。

[OMAKE Disc]

#1 「ロック.part2」

9月の頭に、私の研究授業があった。他の学校の先生たちも参観に来て、後から評価を受ける。
その日のために私は北内先生と何度も打ち合わせた。
詩の授業。目標は「詩を味わう」。
詩を読ませる。解釈をさせる。感想文を書かせる。そんな簡単な指導案を立てる。北内先生のチェックが何度か入り、生徒との問答なども予想して入れていく。そして詩の授業の意義等々、無意味な前文。研究授業で、他の人も来るんだから冊子にして渡さなければならない。

声を張り上げて歌うからロックなのではない。荒々しく演奏するからロックなのではない。
イブキベアツコは「ママに言われて」、ロックを演奏出来る中学校に入学した。
でもそれはロックではない。

研究授業だって、ロックに出来る。

スーツは着ない。いつもと同じように、それ以上に、服装にこだわった。黒のパンツスカートに、カジュアルなパーカー。
参観に来た先生たちはそれだけでも驚いた顔をしていた。
「では、今から体育館に移動します」
国語の教科書を持った生徒たちがぞろぞろと体育館に移動していく。疑問符を頭の上に乗せたまま。
北内先生が顔面蒼白といったかんじで、私のそばに来て小さな声で耳打ちをする。
「指導案と全然違うよね?変更する場合は事前に言わないといけないって言いましたよね?」
「サプライズのほうが、面白いかと思って」
そう答える私の全身は緊張でカチコチだ。音楽部の生徒たちも、発表前にはこんな風になるんだろうか。
「静かに通ってよ」
振り返って、少しざわめく生徒らを注意する。ついてくる人々の中には笑っている他校の教員や、冷や汗でびっしょりのうちの中学の教員。下井くんは目を丸くして、冷や汗をかきながらも、私の目を見てきた。それは、いつも真意を問いかけようとするイブキベアツコの目にも似ていた。イブキベアツコは、当然のように、私の目を強く見た。
4月、打ちのめされそうになったその視線に、私は負けない。彼女が瞳で真意を問いかけるなら、私も瞳で真意を伝える。

体育館で、「それじゃ、教科書78ページ開いて」という私に、戸惑いながら教科書を開く生徒たち。少しだけ、イブキベアツコが笑顔を見せる。
北内先生はさぞかし胃が痛いことだろう。あとで私の常用胃薬をあげる。
課題の詩は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。
体育館の一番端に生徒を一列に立たせ、私はその反対の端に立つ。
「一番大きな声で、自分のペースで、読んでください!」
私も大きな声で言う。
最初、生徒の反応は小さい。ぼそぼそとした声で聞こえる。参観に来た先生たちは体育館の入り口付近で固まっている。
「先生に、聞かせてください!」
大きな声で言う。

「アメニモマケズーッ」
お調子者の鈴木くんが、大きな声を出し始める。それにつられて、鈴木くんの友達も声を出し始める。
「カゼニモマケズーッ」

声を張り上げるからロックなのではない。
けれど、体を張って、見えない壁にぶつかっていくことは、ロックなんだろう。

誰かが言う。「テストにも負けずーッ」。どっと笑いが起こる。
けれど、これこそ私が待っていたもの。
詩を味わう
それは、形式的な解釈を行うことじゃない。
「ミンナニデクノボウトヨバレ」
それほど大きな声ではないが、よく響くのはイブキベアツコの声。
「ホメラレモセズ クニモサレズ」
そういうものに、私はなりたい。

誉められるためじゃなく、ただ自分の信念を通すためにそこにいる。
そういうものに、私はなりたい。

#2 「パンク・ロック」

下井くんに誘われて飲み屋に行った。初めてのことだ。
私の研究授業の評価は散々だった。泣きたくなるような言葉もたくさん言われた。それでも、「あれも、国語の授業の一形態だと、私は信じています」と、言った。相変わらずすぐに痛む胃、すぐに訪れる吐き気。でも、もう逃げ出したくなかった。

下井くんはビールを頼むとネクタイを外した。
私はウーロン杯を頼む。

「びっくりしたよ」
下井くんは、出されたおつまみを食べながら、言った。「先生」という衣を外せば、こんなラフな行動も出来る人だったのだ。
「普通、研究授業って、発表する側が冷や汗なのに、参観する側が冷や汗だった」
それで、少し笑う。
「そんなことないわ。私だってすごく緊張してた」
そういって笑った途端、肩の力が抜けて、涙が出てきた。緊張。罵声。疲労。それでもやりぬきたかったこと。
下井くんが「俺が泣かしたみたいじゃないか」と、困った顔でハンカチを差し出した。
それから、壁にもたれかかってため息をつきながら
「なんてゆうか、ロックだよな」
と、言った。
ビールとウーロン杯が運ばれてくると、下井くんはビールをぐっと飲んだ。
「東先生にも言われたわ」
ウーロン杯を飲むと、ますます涙が出てくる。鼻水も一緒に出てくるから、ティッシュで鼻をおさえた。それから、「手羽先と枝豆ください」と、近くのお兄さんに注文する。下井くんが「あと、チャーハンも」と追加したから「私もお願いします」と、追加した。私と下井くんは、傍から見れば別れ話をしているカップルにでも見えるだろうか。
今日は俺おごるから。そう言って、下井くんは枝豆を食べる。
「パンク・ロックって、意味知ってるか?」
「パンク・ロック?」
ロックは、ロックでしかないと、私は思っていた。私の中で音楽の分類などどうでも良かった。ただ、東先生にロックだといわれたから、「反骨精神じゃないの?」と、聞き返した。
下井くんは枝豆を食べ続けながら、「ま、そうなんだけどさ…形式化されたそれまでのロックに対して生まれたタイプのロックなんだよ」と言った。
詳しいのね、と言うと、中学の頃ロックばかり聴いてたから、と答えた。
「学校なんてさ、形骸化していくようで、いつだって変革を狙ってる。その変革だってすぐに形骸化していく。でも、そこにストレートに『反発してやる』っていう態度はさ…パンク・ロックだよ」
そう言うと、下井くんは天井を見上げた。その目は何かを探そうとする目。

#3 「文化祭」

イブキベアツコの母親は、父母席の一番前にいた。有志の出し物が行われたあと、各部活の発表時間になる。
簡易な照明が当たって、キタザワハルカがドラムを叩いた。スタンドマイクを握ったのはマツダユウキ。スタンドマイクを持ったままジャンプすると、ベースとギターが入る。イブキベアツコがベースを奏でる。
「未来は僕等の手の中」
舞台袖からチラリと見ると、イブキベアツコの母親は仰天の顔をしていた。そして、ベースを奏でるイブキベアツコの豊かな表情。少しだけ歌の上手くなったマツダくんも、本番の高ぶったテンションで音をはずす。それでもいいだろう。
3年生はマツイさんが中心に衣装を作っていたけれど、1年生は制服そのままだった。それが、彼らなりに模索して得た結論だった。
続いて、X-JAPAN「Joker」。これをマツダくんが歌うのは無理だろうっていう話もあったけれど、マツダくんをサポートする形で4人が声を出すことで、下手ッぴでも歌いきる。
最後は、キタザワハルカがひとつ、ドラムをやさしく叩く。ヴァイオリンでもチェロでもない。豪華なオーケストラもないけれど、歌われたのはアリアそのものの「ある晴れた日に」。イブキベアツコの声が体育館に響き渡る。
ロック風にアレンジされたものも作っていたけれど、「この歌の本質を引き出したい」というイブキベアツコの願いで、やさしく、力強いクラシックが仕上がった。
イブキベアツコの母親にも胃薬が必要かしら、と思う。
3年生は「ドキドキ」で始まって、オリジナル。ほとんどギターとベース、ドラムによるセッションのところどころで叫ぶようにマツイさんが歌う。

いつでも欲しいのは
本当のことだけ。
明日消えてしまう声ですら
今日愛したのなら
それは本当なんだろう・・・・

そして、「終わらない歌」。演奏しながら、全員が歌う。そのまま続けて1年生が舞い込んで、「TRAIN-TRAIN」。
練習や打ち合わせと違うハプニング。
それでも歌い続ける彼や彼女たち。奏でられる音。
私と反対の舞台袖に控えていた東先生が、笑顔で聞き入っていた。

中学生の頃はロックばかり聴いていたという下井くん。
この歳でロックしてるのは歌手と私だけだと言った東先生。

それでもいつだってパンク・ロックが愛されるのは、新しいものを形作ろうという姿勢だから。
それと同時に、守り抜こうとするものがあるから。

私はやさしい気持になって、舞台で奏でられる音に耳を傾けた。

THE BLUE HEARTSは1996年に解散。
けれど今もその歌は愛され続けている。
やさしいパンク・ロックは、今も愛され続けている。

すみっこ

教員となり、中学校に再び通うようになって、5年がたちました。
最初の2、3年は、緊張も解けず、生徒に馬鹿にされないように、先輩教員に叱られないように、とどきどきしながら教えていました。
いえ、教えていたというよりも、ただただ必死に仕事をこなしておりました。
けれど、5年目になってようやく、「先生」と呼ばれることにも、ある一部の生徒(だと、私は思っているのですが、実際は一部どころではな いのかもしれません)に、「イケスカナイ教師だ」と眉をひそめられることにも、古参の先生方に「きみはもっと生徒のこころにふれていきなさい」と注意をさ れることにも慣れてきました。
そうして心に余裕がうまれたからでしょう、近頃気がついたのです。
きっかけは、因数分解の問題を質問に来た生徒の言葉でした。
彼女は、仮にAとしますが、そのAは、私に対して比較的好意的な態度を示してくれています。「何はともあれ教師が好き」というタイプです。私もこのタイプだったように思います。だから教員を目指そうと思ったのでした。
特に私は、自分で言うのもなんですが、まだ若いほうです。若い教師というのは、大抵味方についてくれる生徒がいるものです。
彼女は私に、因数分解の、ちょっと難しい問題についての説明を聞きながら、ふと不満そうな顔になって言いました。
「先生、どこ見てるの?」
「え?」
私自身そうであったように、気を引きたいがための根拠のない戯れだと思いました。それで冗談めかして答えたのです。
「もちろん可愛い生徒です」
けれど彼女は少し眉をひそめるとはっきりと頬に空気を含ませて
「違うよぉ、先生、あのへんの、すみっこ見てる」
そう唇を尖らせたすぐあとにぷっくりと膨らんだ頬が破裂でもしたというように噴き出すと、後ろに座った女子生徒を見て
「先生って、いっつもすみっこ見てるよね」
ふふふ、と、この年頃の子に身に付き始めたあどけない色っぽさで笑いました。
その時は、「やだあ、先生の熱い視線を感じないなんて」とわざとらしくしなを作って答えました。そして実際、私は授業中、生徒を見るように心が けているつもりでした。先輩教員方から「教育とは、生徒の目をみて行うものだ」「生徒のこころをとらえるためには、生徒の目を見よ、そうすれば犯罪を起こす子供などいなくなる」と熱く教えられていましたから。
だから、そのように心がけていた私には、彼女、Aの言ったことは半分程度しか頭に入りませんでした。
けれどその日の夕方、翌日の授業準備をしながらふと授業中の風景を思い出そうとすると、思い浮かぶのはたしかにすみっこの風景でした。生徒の顔は、集合写真をおぼつかない指先でなぞるようにしか 思い出せないのに、教室のすみっこは、風が強いとカーテンがなびいて掲示物をたたくこと、その時に、床のほこりがほんのすこし浮くこと、カーテンか らこぼれた日差しが、掲示板を白く光らせること、教室の一番すみっこの床の板には小さな黒い穴があいていること、一番すみっこの、一番上のロッカーには、 誰かの英和辞典が置きっぱなしになっていること・・・ ありとあらゆることが、色と動きを持って具体的に思い浮かぶのでした。
その理由を私は少し考えました。そして、たまたま目がいきやすい位置だからだろう、と落ち着きました。それ以外の理由なんて、思いもつきませんでした。
私に他の理由を思い当たらせたのは、職員室で出た、ある生徒の話題でした。
それは、一学期の中間テストのあとのことでした。
職員室では、どの生徒が成績がいい、とか、そういう話題がされていました。その中に、彼の話題が出たのです。仮に、Bとしておきましょう。Bは、今春入学したばかりの生徒です。私は受け持っていませんが、場の雰囲気に合わせて、その話を聞くとはなしに聞いていました。
「ほら、あの子、英語でも98点だった」
「予想もつかなかったねぇ。あんなおとなしい子が」
「そうそう、休み時間は、いつも教室のすみっこでいてさ」
「あの子、ともだちもいないんじゃないのか?いつの世も、成績良いイイコチャンは友達ができないもんなのかねぇ」
「いたよ、ぼくが中学校の時にも。普段目立たないんだけどね、ここぞというときに力を出すんだよ、きみんとこにはいなかった?そういう子」
と、話題をふられて、私は「そうですねぇ」と考えるふりをしました。
その時私は採点をしていて、それがまた、答は合っているのに計算過程が間違っている子でして、これは一体どう判断したものか、と悩んでいた最中でしたから、彼らのおしゃべりも少し落ち着かないものと感じていました。それでも、考えもせずに無視をして、その場の雰囲気を壊すと言うのはどうにも性に合いません。
考えるふり、をしました。「あんまり覚えてないですねえ」という用意された言葉は、胸のあたりで準備されていました。ところが、ふと思い当たったのです。
「いました、いましたよ、一人。いつも教室のすみっこにいました。中学校の二年生の時に同じクラスで・・・そう、いつもすみっこにいたんです」
---アカサカくん。
その名を思い出しました。
「アカサカ」にどういった字を当てるのか、忘れてしまいました。中学校のアルバムを見ればわかることですが、そこまでするほどのことではありません。
そして彼のことを思い出すと、連鎖的に、私がいつも教室のすみっこを見る理由がわかったのです。
私は、アカサカくんを探していたのです。
告白すると、私は彼が好きでした。中学の頃の、甘酸っぱい好意を彼に寄せていました。 その思いは伝えられることもなく、いつのまにか消えていきました。
それくらいに、語るほどのものでもない、小さな記憶でした。
彼のことで眠れない夜を過ごしたわけでもなく、彼のことだけを考えていたわけではなく、私は標準的にクラブ活動に精を出し、標準的に勉強を嫌がり、標準的に勉強をこなし、標準的にテレビの話題に花を咲かせました。
華々しい思い出は、専ら友人のこと、クラブのことにあって、その頃の私の恋愛感情というものは、薄っぺらなものでした。恋人が出来た高校時代のことなら、いつでも思い出すことが出来ました。けれど、中学時代の、小さな恋を思い出すことは、ほとんどなかったのです。
…いえ、あれは恋ではなかったのかもしれません。

アカサカくんはいつも、すみっこにいました。
目立たない少年でした。
カーテンが風でなびいて、日差しが教室のすみっこを白く照らすと、彼は消えそうに見えました。
透明な少年でした。
他の少年たちが休み時間にグラウンドでサッカーをしている時も、彼は教室のすみっこにいました。
テスト前、教室中が机に向かっている時にも、彼は教室のすみっこに座って教科書を読んでいました。そんな彼を、クラスメイトは好奇の視線で見ていました。勿論、標準的な私もその一人でした。
彼は特に美しいわけでもなく、少し鼻の骨が出っ張っていることをのぞけば、何も語ることのない少年でした。テストは大抵卒なくこなし、けれど決して、とても良いというわけでもありませんでした。
けれど、風になびいてふんわりと浮いたカーテンからこぼれる日差しの中の、或いは、窓に打ちつける雨をながめる彼を探すのはいつしか私の習慣になっていました。
一度だけ、彼と話したことがあります。
体育祭の片付けの時でした。
体育委員だった私は残ってグラウンドにトンボをかけていました。
9月の強い日差しで小麦色に焼かれた肌を、西日が照らしていました。トンボかけが終る頃には、グラウンドに人はほとんどいなくなっていました。皆適当な理由をつけて帰って行くのでした。
けれど私は、委員会の先生と親しかったこともあり、最後まで残っていました。
「先生、こんなに遅くまで残ってたんだから、ジュースおごってよ」
と、私が言うと、その先生は、白い歯を見せて笑い、
「他の先生には内緒だぞぉ」
とジャージのポケットから100円玉を一つ、私の右手に握らせました。
冗談半分だった私は驚いて、「いいの?」と言いますと、先生は「遠慮するな、いくら先生が貧乏だって言っても、100円くらいはあるぞ」と胸を反らせました。
本当にいい先生だったと思います。先生は、現在市内の別の中学校にいらっしゃいます。
アカサカくんと、会話らしい会話をしたのは、その後のことでした。
学校の前の通りを右に曲がると、銀杏並木が広がっており、その一角に自動販売機がありました。少々柄の悪い子などは、通学にお金を持ち込み、そこでジュー スを買ったりしたものでしたが、私はそのような生徒ではありませんでしたから、下校中にジュースを買う、などということははじめての事でした。
少し周りの様子を伺いながら、自動販売機のお金を入れる口に、100円玉を差し込みました。せっかくの機会なので炭酸飲料が欲しい気がしましたが、後ろめたさがあって、部活の大会帰りに顧問が差し入れてくれるスポーツドリンクを選ぶと、ボタンを押しました。
ガチャン。
取り出し口から缶を取り出した、その時です。ふっと人の気配を感じたのです。
西日が、色づき始めた銀杏並木に陰影を与える通学路のすみっこを、アカサカくんが歩いてきました。
その時、私とアカサカくんの距離は、少し離れていましたが、会話をするのには何ら支障はありませんでした。
少し心臓が早くなる気がしました。それは、恋焦がれる少年に会ったからではなく、下校途中に、禁止されているはずの買い物をしているところを見られたから、というほうがより確かでした。私のアカサカくんに対する思いというものは、それほど不確かなものでした。
何を話したのか、よく覚えていません。
「先ず弁解をした」と思えば、そのようでもあるし、「何気ない挨拶を交わした」と思えば、そのようでもあります。
けれど、私はどういう経緯からか、彼に聞くことに成功しました。
「どうしていつもすみっこにいるの?」
さぁ・・・と、彼は、決して私と視線を合わさずに続けました。
「さぁ・・・消えてしまいたいからかな」
それだけ言って、彼は消えました。
いえ、消えたのではなく、私を通り過ぎて行っただけなのですが、その時私は「キエテイク」と思ったのです。
彼は実際には、消えることはありませんでした。
すみっこにいただけでした。
中学二年の終る三月の半ばまで、ずっとすみっこにいました。
そこが彼の居場所だとでも言うように。
そして時々、私たちのからかいの対象になりながら、居つづけました。
彼は時々空を見上げました。
眩しそうに目を細めました。骨が出っ張った鼻が、白く光りました。
時々うっすら笑いました。人はその笑顔を気味悪がりました。私もまた、いつしか、彼を気味悪がるようになりました。
「消えてしまいたい」だなんて。
ジサツガンボウのようなその言葉を、私はかき消そうとしていました。自殺だなんて願ってはいけないことなのです。普通に生きていくためには、そんなことは願わないほうがずっといいのです。
当時は中学生の自殺が多発していた時期でもありました。ですから私は、その言葉をその通りに受け止めていました。
アカサカくんには実際に自殺願望があったのかはわかりません。彼は中学の三年間を全うすると市外の高校に進学しました。その後のことはまるで知りません。
しかし、あの頃よりも大人になった私はこう思います。彼は、すみっこで消えようとすることで、消えることなく自分を主張していたのではなかったのか・・・風を感じて、光と遊び、「ひとり」を演出するこ とで彼は人から好奇の目を集め、そのことで「ひとり」ではなくなろうとしていたのではないか・・・
けれどその頃の私にはそうは考えられませんでした。「消えてしまいたい」と願う性根の暗い少年を拒否しました。私は「普通」でいたかったのです。
普通でいたくて、普通の話をしたかった私は、彼を好きでいた時間を抹消しようとしました。
おりしも、クラブで大会があり、そちらに気持ちを傾けることで、彼への思いは薄れていきました。
そうして彼は、アカサカくんは、私の心から「消えて」、いえ、「消されて」いきました。
そう、私は「消した」と思っていたのです。
朝、いつものように私は教室へ向かいます。生徒になめられないように、すっと背筋を伸ばして歩きます。この歩き方を、「綺麗」と言って誉めてくれる女生徒もいます。
その時私は少し、気持ち良くなります。
教室を見渡します。
生徒が全員いるか、確認します。
名簿を見て、生徒を呼びます。
低い声や高い声、小さな声や大きな声で、生徒は返事をします。
全員います。
「おはようございます」
と、すみっこに言います。
誰もいません。
それから慌てて、生徒の方を見ます。
生徒は口々に「おはようございます」と返します。
「今日の日直は・・・」
と、すみっこを見ます。
誰もいません。
慌てて、教室を見渡します。
生徒がいます。
一番前の席に座っている、例の少女、Aがくすくす、と笑います。
「先生、やっぱりすみっこ見てるじゃない」
その言葉は、私を鋭く突き刺しました。
消えたのではなかったのです。
決して消えはしなかったのです。
「消えてしまいたい」と望んだアカサカくんが、決して消えなかったように。
「消してしまいたい」と望んだ私の中の「アカサカくん」は、決して消えては居なかったのです。
すみっこです。
すみっこにいただけだったのです。
すみっこで、その存在を隠しながら、けれど自分を強く主張していたのです。
私の中で「消され」ながら、「消される」存在である自分を、私に訴えていたのです。
私は、アカサカくんを「消す」ことで、彼を「すみっこ」に居させ続けていたのです。
「そんなことないわ。先生、みんなのことを見てるのよ」
少し大げさなくらいに言う私を指して、Aは笑います。つられて教室の全員が笑います。
「先生、僕らのこと好きじゃないんだ」
誰かが冗談まじりにそう言います。私も頬を緩ませて、笑顔を繕いながら、「みんなのこと大好きよ」と言いながら教室を見渡します。
すみっこを見ます。
少し空いた窓から風が吹いて カーテンがゆらゆら ゆらゆら
ロッカーの上に英和辞典があります。
掲示板にかかった学年通信の、右下隅の画鋲が取れています。その画鋲は真下の床に、針を上に向けて転がっています。
誰かの体育館シューズが片方、その隣に転がっています。
カーテンからこぼれる日差しが影を広げたり狭めたり
その影が一瞬 カーテンと同化して
・・・アカサカくん
に見えました。
勿論、気のせいです。
私はすみっこを見つめています。
すみっこを探しています。
アカサカくんを探しています。
「ほら、やっぱり、先生すみっこが好きなんだ」
箸が転げても笑う年頃のAが、お腹を抱えて言うのでした。