午前零時の田崎くん

零時近くになると田崎くんが机の上に現れる。
田崎くんはラケットをもってテニスコートを走り、手首で汗を拭ってまた走る。
私は田崎くんのプレーを邪魔しないように両手を膝の上に置く。
きっとこれは幻だろうから、どうか幻が消えませんように、と息を殺して見つめてる。
五分もしないうちに田崎くんは姿を消す。一度も私のほうなんて見ない。
私は恐る恐る右手をあげて、さっきまで田崎くんのコートだったノートをなでるけど、シャープペンシルの粉がうっすら指につくばかり。
完了形の復習を始める。

田崎くんはきっと私を知らない。
私は田崎くんを知っている。
田崎くんは田崎誠くんという。
田崎くんは4つ向こうのクラスにいる。
田崎くんはテニス部。
田崎くんはうちのクラスの山下と仲がいい(テニス部だから)。
田崎くんは右の眉毛が長い。
田崎くんは最近猫にひっかかれた。
私は田崎くんのことを色々知っている。
田崎くんは人気者。
人気者だから、私が田崎くんのことを噂しても、みんな不思議に思わない。
でも、夜な夜な私の机の上に田崎くんが遊びに来ている(という幻を見ている)ことは、誰にもいえない。
受験勉強で頭がおかしくなったんだ。誰だってそう言うだろうなあ。私でもそう思う。小学校の頃ちょっと心療内科へ行ったことがあるから、私はそういうケがあるんだろう。
実際、ひどく疲れていたり(水泳のあった日はそう)、家族につかまったりして勉強できないで眠る夜は田崎くんを見ない。もしかして田崎くんは来ていて、私が机の上を見ていないから結果的に見ていないだけかもしれない。
ともかく私が小さな田崎くんを見るのは、零時前後、勉強をしている時に限られる。

夢で見たことはないんだよね。
麻美は木内くんを夢で見るらしい。夢で木内くんと麻美はいい感じになるらしい。でも夢占いによると、いい感じになる夢はうまくいかない暗示らしい。
そんな結果を知りたくないから、私は田崎くんを夢で見なくてよかったなと思う。

学校でも、実はあんまり見ない。
学年集会の時にちらっと顔が見れる。でもあんまりじっと見るのもおかしいし、先生に怒られるし、ちらっと見るだけ。
それと、音楽室や理科室に移動する時、田崎くんの教室の前を通って、その時田崎くんのクラスが体育とかでなければ、見れる。
あと、帰りに田崎くんが部室じゃなくてコートにいれば、見れる。
部室で筋トレしてるらしい時は、見れない。
それもあんまりあからさまに見たらテニス部に嫌われるから、出来ない。

すごく運がいいとき!
すごく運がいいとき、田崎くんが山下に会いに来る。部活の連絡、テニス部の仲間とバカな話を思いついた時、それくらい。麻美が教えてくれるけど、私は妙に緊張してまっすぐ田崎くんを見れない。話しかければいいのに!近くに行けばいいのに!私は出来ない。

「最近妙な夢見るんだよね。テニスやってるんだけどさあ、シングルス。対戦相手が誰かわかんないの。毎晩見るよ。見ないときもあるけど。それでさあ、気づくとテニスコートの上に英単語とか、因数分解とか、書いてあるの。ストレスっぽくね?やだなあと思ってると、誰かの視線感じてさ、振り返って見るの。それは監督だったり太田だったり、レディー・ガガだったりするんだけどさ。夢の中でまで勉強しつつ部活やってんの、やだよ。俺、かなりのストレスっぽくね?」

夏の大会が終わって田崎くんは部活を引退したらしい。
もうコートを通り過ぎて帰る意味がなくなったので、私と麻美は正門から帰る。
学年集会では顔を見れるから、やっぱり見る。
そうしているうちに、小さい田崎くんはあんまり現れなくなった。
そうして小さい田崎くんの来訪が減っていくうちに、なんだか、私は前ほど田崎くんが好きではなくなっていった。

終業式の後、麻美と香澄と私はクリスマスパーティを企画した。ファミレスでケーキ食べて、香澄の家に泊まる。夜にプレゼント交換。私はクマの顔をしたハンドバッグを用意した。
香澄の家で着替えてお昼をごちそうになってから三人でファミレスに入った。
ファミレスでは、小学生や小さい子どもが走り回ってた。マナーが悪くてちょっとイライラした。香澄が年明けの模試の話なんかするから、さらに滅入った。
シフォンケーキを頼んで待ってる間、私は二人の分もドリンクバーを取ってくることにした。麻美がカプチーノ、香澄がココア、私はダージリン。
私はカップを三つまでは上手に持てると思う。
高校生になったらカフェでバイトする。

そのドリンクバーに田崎くんが、いた。
勿論、原寸大の。

びっくりして声も出せなかったけど、田崎くんと一緒にいた山下が「あれえ」と声をかけてくれたから、話すことが出来た。田崎くんのことを知らないふりして、山下と話した。
そして、そのままテニス部の男子五人と合流。
合コンみたいだね、と麻美が言うので私はずっと緊張してた。
田崎くんに、零時前後の小さい田崎くんのことを話そうかと思ったけど、よした。
変な人だと思われるに決まっていた。
それに、その頃には小さい田崎くんは三週間に一回とかでしか現れなくなっていたし、現れてもテニスをしていなくてゲームやってたりして魅力が落ちていたし、自分でも、あ、妄想だ、私疲れてるんだ、と納得していた。
二時間くらい話して、男子はテニス部の練習を見に行くというのでファミレスを出た。
私たちはそれから一時間くらい、ドリンクバーでねばった。
カラオケ行って、香澄のママの焼いたチキン食べて、夜は昼間の男子の話で盛り上がった。
二人が田崎くんのことで私を冷やかすから、私は突然、田崎くんを以前よりも好きになった。
田崎くんがかっこいいという話を、ずっとした。香澄が飽きて寝るまで、ずっとした。

それからは何もない。
お正月は家族と過ごしたし、年明けに模試があったし、願書出して私学受験して、公立受験してたらバレンタインも終わっていた。
卒業式も終わってふっと気がつくと、私は、もう、田崎くんのことが全然好きじゃなかった。
相変わらず、三週間に一回くらい、田崎くんは机の上に現れた。
高校の入学式の夜にも、田崎くんは現れた。中学生の時の姿そのままで、ドリンクバーのコーヒーにストロベリーフローズンを溶かして顔をしかめていた。
ティーンエイジャー特有の熱とやらに浮かれてバンドの追っかけをしている時の遠征先のビジネスホテルにも、零時頃田崎くんは現れ、やっぱり中学生の時の姿で、ダンスしていた。
駅で田崎くんを見かけてからは、出現する小さい田崎くんも高校生になっていた。
初めて出来た恋人に浮かれて寝付けない夜にも、小さい田崎くんは現れた。
結婚してからもしばらくの間、夜中に小さい田崎くんは現れた。
妊娠してからしばらくは出て来なかった。
子供がハイハイするようになった頃からまた、間隔を置いて現れるようになった。
成人式以来田崎くんを見ていないから、小さい田崎くんは二十才のまま止まっていた。
それでも、現れるのだった。
私は、ああ疲れてるんだな、田崎くんは私の健康のバロメーターだな、と思うようになっていた。

田崎くんは長い間零時前後にしか現れなかった。
三日前。
お昼過ぎ、田崎くんは私の愛用のミシンの上でテニスをしていた。
娘のスカートを縫い、息子のカッターシャツを直したミシンだった。
いつも、五分もすれば消えていた田崎くんは、なかなか消えなかった。田崎くんも、いつまでもボールが飛んでくるので、辛そうだった。いくつかボールをこぼしていた。
そして、夕飯を終えて部屋に戻ってみると、田崎くんはぐったりしてコートに倒れ込んでいる。
頑張れ。
田崎くん頑張れ。
私はそう、声に出してみた。
田崎くんはよろよろと立ち上がった。
ラケットを握る。
田崎くんの手首から肘に筋が立つ。
肩甲骨が盛り上がる。
ボールが飛んでくる。
打ち返す。
呼吸が荒くなる。
打ち返す。
肩を大きく揺らす。
打ち返す。
「頑張れ。田崎くん、頑張れ」
その間、田崎くんは、中学生になったり、二十才になったりしてみせた。
私が眠りについてからも、田崎くんはテニスをしばらく続けていたようだった。

二日前。
疲労困憊といった様子の田崎くんは、朝から私の食パンの上に座り込んでいた。
食パンを焼くことが出来ないので、冷やご飯をチャーハンにして食べた。
食パンの上にチャーハンを少し乗っけた。
田崎くんはチャーハンを食べた。
チャーハンは減らなかった。
夜には食パンから消えていた。

昨日。
朝から田崎くんは私の布団のそばにいた。
くすぐったい気持ちになるのと、自分の体調を気にするのと、同時だった。
私は起き上がれなかった。
手元に電話を引き寄せて、息子に連絡してみた。
息子は仕事中だった。
田崎くんはおどけたり、私の寝間着に入りこんだり、布団をくぐったりした。
楽しくて、楽しくて、だから田崎くんは人気者なのだと思った。

今日。
気がつくと息子が手を握っていた。
私は病院のベッドの上だった。
田崎くんは点滴の管にぶらさがって、こちらを見ていた。
そして
「大丈夫?」
と尋ねた。
私は頷いて、テニスボールとラケットを渡した。
田崎くんはテニスを始めた。
田崎くんはかっこいいなあと思った。
田崎くんは私をテニスコートに招いた。
田崎くんがボールを打つ。
田崎くんは私にラケットの持ち方を教えてくれる。
田崎くんと私でダブルスを組む。
田崎くんはかっこいい。
田崎くんは田崎誠くんという。
田崎くんがボールを打つ。
リズミカルな息で打つ。
田崎くんがボールを返す。
額のタオルが汗を吸う。
田崎くんがボールを返す。
右足を大きく踏み込む。
田崎くんがボールを返す。
陽射しが眩しい。
田崎くんはかっこいい。
田崎くんは私を知っている。
田崎くんは私を知っている。
今、田崎くんは私を知っている。