トモは死んだ

19日午後三時半頃、A県N市にあるアパートの二階で、山口友江さん21歳が、首をつって自殺しているのが発見されました。

「何あれ」
 ユッコは、まるで喉にささった魚の骨を取り出そうとするみたいに言葉を吐いた。
「何だよ。なんでトモ、自殺してんの?」
 ユッコの吐くコトバに、私は笑いたくもないのに笑顔を作って「まったくよね」と言うしかなかった。
 報道を受けて、私は自然にユッコの家に電話をかけていた。
 小学校卒業以来、実におよそ10年ぶりの連絡。中学では、たまに会ったりした程度だった。それも偶発的に。だから、連絡を取るのは、本当に久しぶりだった。その連絡がこんなものになるのは、予想外だったのか。
 それとも、連絡を取るとしたら、やはりこういう時だけだったのかもしれない。
 ユッコのお母さんが、遠慮がちにお茶を持ってきた。私に軽く会釈して、部屋の入り口にお盆を置いて、そそくさと帰る。顔色が悪いのは、どうやら扉の影になっているせいだけではないようだ。
「お母さんと、最近どうなの?」
「冷戦状態ってとこ?攻撃してるのはこっちだけどね」
 ソビエト連邦はとっくの昔になくなって、冷戦なんて小学校卒業するより前に終結したのに、この母子は冷戦を続けている。
 以前来たときと変わっているのはユッコの髪が金色になっていることと、お母さんの髪の毛が白くなっていることか。
「トモってさ…自殺するような子だった?」
 私は、やっぱり喉元にささった小骨を取り出したくて取り出したくて、コトバを出した。
 ユッコはお盆の上のお茶を窓から捨てた。「あんたは飲んでいいよ」そう言い添えるのも、昔と同じ。
「さぁ…」
 お茶が綺麗になくなると、ユッコはベッドに座る。布団から漂う匂いに、オスの人間がこの部屋を頻繁に訪れていることがわかった。
 ユッコ。
「けど、もう十年でしょ?十年あれば、色々あるっしょ」
 さっき「なんで自殺してんの」と言ったのはユッコなのに。
「あたしらだって、この十年、あの子のことなんか何にも知らないでしょ」
 私は頷いた。でも「でも、あの子、いつも楽しそうにしてたじゃない」
 ユッコはベッドに寝転んだ。
 私は手元のお茶を飲む。美味しい。ユッコのお母さんのお茶は、美味しい。
 寝転んだまま、ユッコは布団を被る。埃が舞う。
「十年あれば、人間変わるよ」

 ユッコとトモと私は、小学校の頃、いわゆる「仲良しグループ」だった。
 小学校の頃の「仲良しグループ」なんて、すぐに入れ替わるものだ。 私たちも例外ではなく、クラスが同じ時だけ仲良く集まり、クラスが離れ離れになれば別の子と固まった。
 ユッコは「大体」と言って金髪をかきあげた。髪が、だいぶ痛んでる。
「小学校、3年と、5年の二回だけでしょ?一緒だったのは」
 耳にのぞくピアスに西日が射した。
 その通りだ。
 ユッコと私、とか、トモと私、という組み合わせは他にもあった。でも、三人一緒だったのは、あの二回だけだった。 だけど、その二回こそが私には特別だったのだ。ユッコにだってそれは同じだったと思う。
 だから、私と今こうして会っているんだ。
だって
「…だってそれが、方法だったじゃない」
 ユッコの時間が止まった。
 私の時間も、多分。
 一階のキッチンから、カチャカチャ、お皿を片付ける音が聞こえてくる。
 ユッコは跳ね起きて、扉を開けて、「うるっせぇ!」と階下に叫んだ。
「うるっせぇんだよ、あんた!!!!出、て、け、よ!!!!!」
 と、洗い物の音は止まる。ゆっこの荒い息が残る。その静寂を破るように扉を乱暴に閉めると鍵をかける。それからドアノブを紐で縛った。何重にも。
 小学校の頃は椅子で扉の前を塞ぐだけだった。
 冷戦が進むにつれて核兵器が進化したみたいに、ユッコとユッコのお母さんも、武器を変えていた。
 私は顔を上げた。
「ユッコだって、本当は覚えてるでしょ?」
 ユッコは何も言わない。
「そう、トモはこの十年で何かあったのよ。何か、辛いことがあったのよ」
 ユッコは何も言わない。
「だから、自殺したのよ」
「だったらそれでいいでしょ」
 ユッコは、口の中に入った髪の毛をなめた。
「そうよ。トモは自殺したくなるような目にあったの。だから死んだの、だから首つったの」
「違う、トモは辛いからって自殺するような子じゃなかった」
「はぁ?!あんた、矛盾してるよ?」
 ユッコは、笑った。金髪をかきあげて。
「矛盾じゃないわよ」
「わかんないんだよ。あんた」
 ユッコは、私の湯のみを手にとった。
 窓から、お茶を捨てる。
「あの人のお茶でおかしくなっちゃったんじゃないの?」
 笑いながら。
 ユッコ。
 あなたも本当は覚えてるのよ。忘れていない。わかってるのよ。あなたも。

、、、、、、、、、、、、、
トモは自殺なんてしていない

 一つの確信を持って、私はユッコの、学習机の一番下の引出しを探った。多分、中学校卒業してからは一度もその目的に使われていない学習机。本来の目的を忘れてしまった、忘れ去られた、忘れるふりの顔をした学習机。
「あんた、何してんの」
 ヒステリックな声を、ユッコが出す。「探してるの」
「何もねぇよ!」
 ユッコは私の腕をつかむ。でも、彼女のやつれた腕が、私をとらえることができるはずがない。
 大学のバレー部で、毎日練習してる私と、彼女じゃ違う。
 彼女の腕はすぐにほどかれた。
 それで、そのまま、ベッドに倒れこむ。
 こうやって今までもオスと。
 引出しの中には、キャップを無くしたピンクのシャープペン、卒業証書、夏休みの日誌、単語帳、頭痛薬、リップ、使われていない消しゴム、生理用品、
「そこじゃないよ」
 ユッコは、ベッドの布団をひっくり返した。埃。咳が出る。
「どれくらい干してないの?」
「…中学卒業してから。センセーとヤった記念に」
「有馬先生?」
 私の問いかけにユッコは答えず、布団の下から包みを出した。有馬先生がユッコ。そんな気はしていたけれど。
「これでしょ?探してるの」
 それは、近所のオモチャ屋さんの赤い紙袋に入れられていた。薄さは1センチあるかないか、縦も横も、10センチもない、紙袋。消しゴムのような小さいものを買ったときに使われるものだった。
 ユッコは紙袋をあける。黄色く変色したセロテープは、はがそうとしなくてもはがれた。はがれたというよりも、くずれた。
 その中から、一枚の便箋が出てきた。
 便箋は綺麗なままで。
「これ」
 それは、小学校三年生の頃、私たちが作った、盟約だった。

 私の母は、あの頃地域に根付き始めていた新興宗教に入った。ある日学校から帰ると、母が涙を流して玄関に正座していた。「ミカちゃん今までごめんなさいね」
 母は時折私に手をあげることがあった。それを止めるのは、同居していた母の兄の仕事だった。
 母が謝っているのは、紛れもなくそのことだった。私はなんだか嬉しくなった。あぁ、私は今まで母から罰を受けてきたけど、ようやく許されたのだと思った。
「今までのはね、お母さんの過ちだったの」
 それからあと、母は私にはわからない単語と言葉で、自分の非を訴えた。世界が抹消だとか、彼岸ではなく此岸だとか、救済は終末だとか、だから今までの母は悪であったのだがカンボウ様によって救われたので、これからは世界を良くするために働くのだと。
 母の兄はそれを否定した。私を一緒に入信させようとする母から私を引き離した。
 母は私を諦めて家を出て、その修行場に行ったきりまだ帰ってこない。私のことなんてもう忘れたかもしれない。

 三年生になって初めての席替えで、席が近くなった私とトモとユッコは、始めは何でもない、よくある小学生のグループだった。でも私が、冗談まじりにぽろりと言った「うちのお母さん馬鹿なの」という言葉にユッコは鋭く反応した。
「うちのお母さんも馬鹿なの」
 トモは同調した。「お母さんってきっと皆馬鹿なんだよ」
「違うよ」私は言った。私は大人の会話から、自分の母が周りとは違うと知っていた。
「普通のお母さんはやさしいんだよ。でもうちのお母さんは馬鹿なんだよ」
 本気で言っていた。
 ユッコもトモも、本気の顔で、頬を赤くして興奮した面持ちで、うん、と鼻息荒く頷いていた。

 ユッコが布団を戻した。また埃。
「センセー、すっげ、やさしかった。あたしのお母さんっておかしいの、ってゆうと、でも由子はおかしくないだろ。って言って、胸揉んでくれた。こうやって。由子のおっぱいは綺麗だなぁって言って」
 大事そうに、自分で胸を揉んだ。
 でもどうせ有馬先生はユッコを一回抱いただけなんだ。あんな卑怯な生き物は。
 ユッコは私がいることを忘れているかのように体の感覚にしがみつき始めた。
 ユッコのお母さんは、ユッコに触ったことがないという。
「だからあたし、『愛されない子』なんだって」と、ユッコは大人の言葉を借りて言っていた。「あたしたちって救われない子なのかな」
 宗教にはまった母の所為で「救い」という単語がアタマにインプットされていた私は、呟いた。
 私たちは、お互いの傷口を慰めあうように語らっていた。トモはーー何も言わずに聞いていた。
「ユッコ」
 ユッコはまだ体をなぶっていた。多分有馬先生を反芻していた。今までもこうして?ユッコ。
「ユッコ、トモは、何だったんだろう」
 うぅん、と溜息ともつかない声をユッコは漏らした。私は、戸惑って、でも、ユッコならこの光景はさほど不思議でもない。と、納得もしていた。
「トモは、なんで、私たちのそばにいたんだろう」
 私とユッコには、母親に対する憎悪という共通点があった。でもトモは、何も語らなかった。ただ私たちの言うことを聞き、私たちが許せないと言うものに同調して許せないと言っていた。
 ユッコは、まだ手を止めない。でも、そこに有馬先生の影はなかった。機械的な、肩こりをいたわるような動作にも見えた。
「ミカは、いつやったの」
「ユッコ。私そんなこと聞いてない」
「あたしがミカに聞いてる」
 私は答えなかった。
 ユッコの、手が止まった。
「……そんなこと考えたこともなかった」

 救われない子を救ってくれる神様がいればいいのよ。提案したのは私だった。母の影響は少なからずあった。ユッコもトモも賛同した。
 私たちは救われたがっていた。
 いればいいのよ。は、いつか、絶対いるんだわ。に変わっていた。

「風が吹くと花が咲くんだっけ」
 ユッコは思い出していた。盟約には書いていない、世界を。
「そう。夜になるとしおれるの」
「でもそれだと花が可哀相だから、また朝になると風が吹いて、花が咲くんだ」
 ユッコは乾いた声で笑った。「馬鹿だな、あたしら」
 便箋には盟約と、絵がかかれていた。絵を描いたのは、一番上手だったトモ。トモはあんまり何も言わなかったのに、上手に神様の絵を描いた。
 神様は、ネズミのような恰好をしていた。ネズミは小さくて嫌われ者だけど、知恵が働いて賢いから。私たちのような「救われない子」を救うには、ネズミが良かった。
 本当は私たちは、その「神様」の住む世界の住人なのだった。色々事情があって、この世に来たのだ。その事情を考える時間が楽しかった。私は、その事情をあるときは「向こうでいたずらをしてしまったから来たのだ」と言い、あるときは「お母さんを殺すために来たのだ」と言い、あるときは「こっちで遊びたくなったから来たのだ」と言っていた。ユッコは「お母さんを殺すためにここに来た」と、ずっと言っていた。その目的はいまだ果たされていないようだが。トモも、私と同じように理由をコロコロ変えた。
 色々な理由を作って、この世で受難せねばならないことを自分に言い聞かせた。そして「いつか、神様のいる世界に行こうね」と誓い合っていた。
 小学校五年生で、再び同じクラスになったとき。ユッコが言い出した。
「覚えてる?」
 忘れないようにしよう、と私が言った。
 大人になれば、こどもの頃の気持ちは忘れてしまう—そんな文句をどこかで聞いたことがあった。
 トモは頷いた。
 少女漫画雑誌の付録の便箋を私が持ってきて、ユッコが色ペンで書いた。トモが読み上げた。
 この部屋で。

「私たちは、救われない子どもです。
とてもかわいそうな子どもです。
だけどそれは本当ではなくて、
本当は☆●※◇という世界から来た、
選ばれし民なのです!

私たちは、今は修行ですが、いつか
☆●※◇に戻ります。
それまでに、私たちはこの不こうを
のりこえているでしょう。
そして私たちは、神さまになるのです。

神さま、まっていてね

トモ ユッコ ミカ」

私もユッコも、大満足だった。
自分は実は不幸な娘ではなく、選ばれし民なのだ。と、思うこと。それだけで。

「向こうに行ったっての?」
 疑わしいものを見るように、ユッコは私に言った。
「ユッコだって、向こうに行くための儀式、覚えてるでしょ…」
 ユッコがすくっと立ち上がり、湯のみを、ガチャン、ガチャンと、窓から捨てた。
 最後にお盆を捨てた。
 その音に耐えられなくなったのか、ユッコのお母さんの「ユウちゃん?」と不安げな声が聞こえた。それと殆ど同じくらいでユッコは「黙れっ、て、言ってんだろぉー!」とがなった。「殺すぞ!」とも。

 また静寂が、来た。

「ったく、あの女は…」

 ユッコ。あなたはお母さんを殺さない。
 私には確信があった。
 私もお母さんを殺さない。
 だって、私もユッコも、何度も空想でお母さんを殺しているから。

「向こう」には、簡単には帰ることが出来なかった。だってこの世界での受難は私たちに課せられた使命だったから!

「でも、一つだけ、向こうに行く方法があったよね?ユッコ」
 提案者はあなたよ。
「一番許せない人を、殺すこと」

 同時に声に出していた。

「だったら、余計おかしいでしょ。トモは、自殺したんだよ。人殺ししたわけじゃない」
 その通りだ。
「誰か殺したことを罪に感じてとか?あるわけないでしょ」
 その通りだ。でも「わかるでしょう?ユッコだって」
 私もユッコも母親を憎んでいた。殺したいと思っていた。でも
「本当に憎いのは自分よね?」

 母の兄は言った。私たちのあどけない遊びを悟って。
「ミカちゃん、きみのお母さんはたしかに酷い奴だが、殺したいと思ってはいけない」
 道徳の時間、お父さんお母さんは大切にしましょう、いつもお世話になっていますねありがとうございますといいましょうと教えられた。遠足です、動物園です、お猿の親子がおんぶしてますね、みなさんもああいうふうに仲良しですね、え?仲良しではない?そんなはずはないでしょう。あるとすればそれはあなたが毎日いい子にしていないからですよ。あっちにいるのはカンガルーです、おなかに子供を抱いて可愛がっていますね、え?カンガルーがうらやましい?そんなことはありません、あなたのお母さんもお父さんもみんなあなたを愛していますよ、愛していないとすればそれはあなたがいい子にしていないからですよ。いい子にしていないからですよ。

 ユッコは、胸をまた揉んだ。有馬先生を反芻した。
「センセー…あたしのおっぱいが綺麗だって言った…」
 この子の神様はネズミのように小汚い心を持ったオスだった。
 40過ぎた有馬にとって、15の少女は魅力的だったろう。たった一度抱けるだけで彼は満足だったろう。それ以上を求める勇気はなかったろう。でもユッコは。有馬先生を求めていた。彼女を「綺麗だ」と認めた。彼女のお母さんを「おかしい」と言った有馬先生を。
 あのネズミは、きっとその場の流れだけでそれを言ったのだろうけど。

 私たちがいつも恨んでいたのは、母を愛せない自分自身だった。
 こんな私がいなくなって、別の私になればいいと思っていた。
 そうすればきっと母に愛されて。

「19日、自殺しているのが発見された山口友江さんは、」
 六時のニュースが続報を伝えた。
 たわいない内容だった。職場で彼女は苛めにあっていた とか 両親は別居中 とか そんなたわいのない。
「トモ…楽しそうだったよね」
 ユッコが、有馬先生を反芻しながら呟いた。
 私たちが、「向こうの世界」を考えている時。何も言わなかったけれど、トモは、楽しそうだった。
 楽しそうに、「向こう」の絵を描いた。
 トモは「向こう」に行きたがっていた。
 辛かったから「向こう」に行ったのか?
 …違う気がする。あくまでも「気がする」だけだけど。
「トモ…死んだね」
 ポツリと、ユッコが、言った。

 ドアノブに巻いた紐をほどきながら「ミカ今何やってんの?」と今更ながら聞いた。
 聞かれたくなかったような気もしたけど、どうでもいい気もした。
「不倫」
 ユッコは一瞬時間を止め、
「お母さんのお兄さん?」
と、「確認」した。
「嘘。大学生」
 私の神様も、小汚い動物だ。
 玄関のそばにある和室の襖の隙間から、ユッコのお母さんが見えた。
 息を殺していた。
 ユッコが「黙れ」と言えば黙る。ユッコが「出て行け」と言えば出て行く。
 だけど、ユッコは彼女を殺さない。
 そしてユッコは死なない。
 ギリギリの状態で冷戦を保つ。
 きっといつまでも。
 新しい歴史が新しい冷戦を始めても。
 私もきっと、死なない。
 母を殺さない。
 殺そうにも母はどこにいるのかわからない。ひょっとして、どこかで死んでいるのかもしれない。何とかの教理に従って何かやらかして。
 もしもそうだとしたら、私は少し悔しいのかもしれない。

 トモは、もう「向こう」で神様になっただろうか。