K a i

 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
  空はすべてをつないでる。
       **********
 (壊れる)
 衝動が胸を打つ。圧力をもって為される、回転。うねり。
 (どこから)
 飛行機が青空を走る。白いひとつの尾をひきずりながら。ぐらり、天地がゆらぐ。一周しているようだ。温度差が生み出す圧力、ぶつかりあい、乱れる秩序。生態系は狂う?
 (見えなくなる)
 いや聞こえなくなる。におわなくなる。すべて五感がうばわれゆく。ただ、この流れは変わらず打ち続ける。大小あれど、変わらない、外圧に負けずここにいる。だいぶん近くにあるよう。まるで臓器のよう。そして――――
 「……!」
 ああ、
 「…マ!」
 叫びのように、つんざくものは、
 「ママ!」
 まるで、我が子――――
       **********
 「割れた」
 机に散ったグラスの破片を見つめてサツキが言った。そしてか細い指で、拾い始める。破片はキラキラ、部屋の照明を受けて壁に光を返す。ちっぽけで狭いこの部屋に。太陽と、太陽を中心に公転する惑星たちがあるようだ。
 「いたい」
 サツキは言って、右の人差し指を見た。こぼれた褐色のコーヒーの中にポタリと血が落ちる。ガラスで切ったのか。サツキはそのまま破片を拾い続ける。指からしたたる赤い血は降り始めの雨のごとく。褐色ににじむ赤色はまるであの日の景色のごとく。
 
 大体10年くらい前になる。地球は大変動を起こした。プレートは滑り込み、核で蠢くマグマが地表に流出した。警報は前々から出されており、主に先進国政 府による「救済政府」も準備されていた。僕は変動の起きる前日にシェルターに入った。シェルターには毎日、人工衛星がとらえた地球の大変動の映像が送られ てきた。その景色、この星の終末を告げるようだった。各地で起きる火山噴火が空を赤錆にした。赤錆の空は赤い雨を降らせた。誰かが言った「まるでノアの箱 舟だ」。
 シェルターにも地球の振動は伝わってきた。やがて水が浸透し始めた。その日以来、誰もが長靴を履くようになった。
 地表に出られるようになるまでに、3年がかかった。それまでに多くの人がシェルターの中で気狂いになって死んだ。
 地表に出て久しぶりに見た世界は、赤茶にぬかるんだ大地。崩れた高層建造物。行き場を失くした魚たちが最後のエラ呼吸で息を引き取る。空は赤から、そし てピンクへ。3年前と同じ星とは思えなかった。しかし「救済政府」がかねてから準備していた装置や備蓄によって世界は復興に乗り出した。復興は、水浸しの 地面を歩くのに適した靴を生き残った人々に配布することと、食料を配給することから始まった。続けて行方不明者の捜索が行われた。
 人間とは、実にタフな生き物だ。ひとときその価値を失っていた貨幣はたちまち息を吹き返し、当初は申請許可が必要であった就労及び商売は取締りが追いつかないほど蔓延。当時14歳であった僕もアルバイトを始めた。
 お金があれば、配給される分よりずっと上質でたくさんの食料が手に入った。
 同時に僕は受験勉強を始め、救済政府の指示によって各国に作られた国営学校へ入学した。国営学校の大学部まで卒業すれば、復興の暁に官職に就けることが 約束されていた。何十という倍率の中合格した僕は、その時になってようやく捜索願を出した。母の捜索願だ。その、捜索願届を出すときに、サツキと出会っ た。
 サツキは、救済政府による初期行方不明者捜索活動で発見された身元のわからない少女だった。僕は彼女を――
 「妹です」
 僕は彼女を引き取った。戸籍情報は紛失していた。誰でも「家族です」と言えば家族として認定された。当然のようにそれを利用した人身売買もあったが、僕がサツキをひきとったのはそういう目的ではなかった。
 似ていたのだ。あの日の母に。
 「たしかに、兄です」
 サツキは僕の嘘を受入れた。そして書類上、僕らは兄妹となった。
 国営学校が用意した寮で僕とサツキは暮らし始めた。僕らは兄妹だから、恋愛感情を抱いたりすることはなかった。そして、ない。現在もなお。
 サツキは自分のことをほとんど語らない。僕もまた。
 母の捜索状況は定期的にメールで届けられた。
 <発見されませんでした>
 そして僕はいつも続けて捜索願届を出した。
 本当は、わかっているけども。
       **********
 浄水器を通した水で指を洗い、軽くガーゼをあてた。ガーゼはすぐ赤く染まる。
 「まだ痛い?」
 「いえ」
 サツキは簡単に答え、箒と塵取で破片を集め、引き出しに入れた。彼女に与えられた机には、そんなガラクタばかりが入っていた。ガラスの破片。石。貝殻。
 「回収に来ました」
 毎日やって来るゴミ回収を生業としている男は、僕からビニール袋を受け取り「お代を」と左手を差し出す。サツキが段ボールを渡す。段ボールの中にはサツキが描いた絵画らが入っている。妹は、絵で生計を立てていた。
 彼女は絵を。僕は勉強を。
 狭い部屋で、黙々と。会話もほとんどなしに生活している。生きている。
 窓からこぼれる光はやたらピンクだ。ここ数ヶ月でその色合いはますます鮮やかになったようだ。携帯電話に配信されるニュースではこの現象について各界の学者らが各々意見を提出し、解決しようとしている。
 ばかげている。
 地球も、太陽も人間も。X=、で表現できるものではないのに。そう考えつつ、X=12という解を僕は問題集に筆記する。
 あまりにばかげた世の中なのに。だから。
 ばかげた解が、崩れた貝と、等しく価値をもっている。
       **********
 大学部に合格した日、僕は雨漏りや浸水のない高層にある寮へと移ることになった。あの日から何年も経ち、地上で新しい生活を始めてから幾年も経ったというのに、未だにこの惑星が起こした現象の謎は解けていない。
 妹を誘って高層部に行こうとしたが、サツキは首を横に振った。うっすら赤い雨が降りしきる日。いつもより水かさは増し、僕らの部屋も水浸しになっていた。
 サツキは描き溜めた絵を僕に渡した。そうして、引き出しの中にあるガラクタたちをその手ですくうと、頭から被った。
 ガラスの破片が。石が。サツキにぶつかり、突き刺さり、サツキの体は赤く雨を降らして
 「あの頃に戻りたい」
 そのまま、部屋を出て行き、それっきり――。
 僕は残されたサツキの机の引き出しを覗いた。キラキラ、破片は黙しつつ語っているよう。そして、サツキが残したものは。
 貝。
 いくつもの貝。
 口をつむいで、時に砂を吐く様に言葉を発する、サツキは、まさしく貝だった。
 
 高層の部屋に移った僕は窓を開け、赤みがかった雨を頭に受けながら、外を見た。
 いつかシェルターで耳にした言葉「ノアの箱舟」。選りすぐられた人間だけが高層の部屋から「下界」を見ることが出来る。雨の降る日、ピンク色の濁流が巻き起こり、また行方不明者が出る。サツキもあの濁流に。
 けれどきっとサツキは見つからない。赤い血を流し、ピンク色の濁流にその身を任せ、サツキは貝になる。
 
 僕は、長年出し続けた母の捜索願を、その日、打ち切った。
       **********
 警報の出されたあの日、空は驚くほど青かった。シェルターに人々が詰めかけた。僕も母に手をとられ、シェルターに向かって歩いていた。その道すがら。母は青い空を見て
 「懐かしい色」
 そう言うと、青い、青い、空の中へと飛び込んだ。
 空は本当に青かった。ずいぶん青かった。けれど大気は荒れていた。だいぶん荒れていた。飛び込んでいった母は、まるで狂ったトビウオのように、青の中で姿を現したり、また見えなくなったり、飛び上がったり――
 「ママ!」
 僕の叫びを母は耳にしただろうか。
 「ママ!」
 遠のく景色に母は何を思っていたのだろうか。僕は周りの大人に小さな体を抑えられ、そして引っ張られるようにしてシェルターに続く道へ。母は離れていったけれど――
 
 あの頃に戻りたい、と、サツキは。
 懐かしい色、と、母は。
 
 僕は再び「下界」を眺めた。溺れる人々。魚のよう。見えなくなった人々。貝。
 
 窓を閉め、僕はサツキに渡された絵画を1枚1枚、見た。
  真っ青な景色。
  魚のように人々。
  もの言わぬ貝。
  ピンク色に染め上げられた景色。
  魚となった人々。
  もの言わぬ貝。
 僕は再び窓を開け――
       **********
 (壊れた)
 衝撃が胸を打つ。圧力、うねる。
 (ここだったのか)
 ピンク色の空を、白いひとつの尾をひきずりながら飛行機が走った。正されようとした秩序。生命は、狂う。
 (見たかったものは)
 きこえてくる。におってくる。すべて五感が戻ってくる。ずいぶん、ずいぶん僕は遠くへ来たのだが、ずいぶん、だいぶん僕は近くになったのだ。
 遠く、つんざくように
 「…われた!」
 あの声は、ああ、
 「まるでダメだ」
 もう、
 「見込みはない」
 いや、ちがう。脈打っているものを知らないか。僕は臓器になったこと。
 「まだいた?」
 「いいえ、もう」
 見えないんだろう。僕のこと。
 ここは青い。ずいぶん青い。青い中で泳ぐ僕を、いつか見つけるんだろう。母も―――妹も。
**********
 「あ、魚だ」
 「とんだね」
 「あれは何?」
 「トビウオ」
 「あ、貝だ」
 「砂を吐いたよ」
 「あれはなぜ?」
 「景色を見るため」
 「あ、青い」
 「空みたいだね」
 「ここはどこ?」
 「答だよ」
  すべてをつなぐ、答だよ。