highteen

お姉ちゃんは、身内のあたしから見ても美人で魅力的だ。
ちょっとした仕草にあたしは時々ドキッとする。
はにかみやで、本を読むのが好きで、大学では英語を専攻。本屋のバイトで貯めたお金でイギリスに留学した。
黒い髪がよく似合う、ホントに綺麗な人なんだ。
だから、少しびっくりした。少しだけで、しばらくすれば「そういえば留学するときも突然だったっけ」と納得したけど。
お父さんは「仕方ない」とだけ言った。お母さんは、卒倒しそうになっていたけど、お姉ちゃんがあまりに自然だったから、「夢なのかしら」と言いつつも事が進行している。あたしは、ほんの少しお母さんが心配だ。でもこれも「ほんの少し」なんだけどね。
お姉ちゃんは、帰国してすぐ「できちゃった結婚」をすることになったのだった。

お姉ちゃんのダーリンはひょろっとした、あたしの感覚で言っちゃえば「冴えない男の人」。ユーダイさんという、れっきとした日本人だ。ユーダイさんは 「広井雄大」という、とってつけたような名前なのだけど、あたしは彼を見て「名は体を表す」って言葉は嘘だと確信した。いや、嘘なんじゃなくって、例外も あるってことかな。お姉ちゃんは「美鈴」、容姿が綺麗なだけじゃなくって声も綺麗なんだもん。
ユーダイさんは動物でたとえるならば馬。野菜だったらかいわれ大根。海外勤務の商社マンっていうならともかくそういうわけでもない。お父さんがオッケー 出した理由もわかんないんだけど、身分的にはお姉ちゃんと同じ留学生、少し違うのは大学院生ってことだけで、基本的に学生。「ウソー!」とあたしは呟いて しまった。
何よりあたしが「冴えない」と思うのは、鼻の穴が大きいこと。こんな人がお姉ちゃんみたいな美人と結婚するなんて信じられないな。
だけどお姉ちゃんは、ユーダイさんと話すとき、はにかんで、目尻を下げて幸せそうな顔をする。ウソー。
世の中には不思議なこともあるもんね。と、あたしは考えながら、「生まれる子どもの名前前はあたしとオンナジ、『美紀』にしてね」と、決め付けている。男の子だったら同じ字で「よしき」って読ませるんだ。

このことをあたしはクラスメイトの丘崎に言ってやった。丘崎は学年で一番に頭が良くて、顔も俳優みたいに綺麗な(どっちかっていうと、お姉ちゃんみたいな綺麗さ。女性的な美しさだとあたしは思っている)男の子だ。
丘崎は白い肌の頬を赤らめて「嘘」と言った。そうそう、こいつホモッ気があるらしいのだ。ターゲットは同じクラスの健一。時々うっとりした目つきで健一のほうを見ている。健一はこのこと気づいてるのかしらん?
「美紀のお姉さんって、あの純情可憐ってタイプの人でしょ。ショックだな、何となく」
「あたしだってショックだったよ。でもさ、ああやってイキオイのあるところもお姉ちゃん、流れる石だよね」
「さすが」を「流れる石」というのがあたしと丘崎の間では流行ってる。
丘崎はポテトチップの袋を開けながら「それはやっぱり『関係した』ってことだよね?」と言った。
身内のあたしには言いにくいことを、丘崎はさらっと言ってのけた。女の子の口から言われるのではなく丘崎の口からこんなこと言ってほしくないなぁ、とあたしはちょっと嫌ーな気分になる。
「そりゃ、コウノトリは、そうしなきゃ飛ばないでしょーね」
「どうしてそんなことしたのかな」
丘崎は溜息をついた。長いまつげが下を向いて一段と綺麗に見える。
「やっぱり人間って、そういうことがなけりゃ愛し合えないもんなのかな」と、丘崎。あたし、は「うーん」と、首を傾げる。
「愛し合った先に、性行為ってもんがあるんだと、あたしは思う」正論で一般論(だとあたしは信じてる)を、投げかける。放課後の教室で、年頃の男女二人、こんなことを話してるなんてどうかと思うけど。
だけどあたしがそう言うと、丘崎はほっとしたような顔をした。「あら可愛い」と、あたしは思った。
スマートな丘崎の体に、学生服はフィットしない。少し余ってしまう。それがまた、あたしは「綺麗」って思うんだけど、丘崎は嫌みたい。「手首のところが、擦れて痛いんだ」って言ってる。
「丘崎はどう思うの?」
あたしは肘を机についたまま問う。丘崎は椅子にもたれて、少しそっくり帰った姿勢で「オンナジ」と言う。「美紀とオンナジ」と言う。そしてはにかむ。い い年した男がよ?もう精通だってとっくの昔に経験してて、多分たまにはマスターベーションくらいやってるでしょ?っていうような男がさ、「性行為」ってい えないの。やっぱり丘崎って可愛い。
「やっぱり、そうだよね」
あたしは、とりあえずの相槌を打った。

ユーダイさんとお姉ちゃんとあたしの三人で、日曜に買い物に行くことになった。学生の身分のユーダイさんのどこにそんな財政力があるんだろう、ってあたしは思ったけど、ユーダイさん曰く「美紀ちゃんに誕生日プレゼントを買ってあげたい」ということだ。
あたしは、友達からプレゼントを貰うだけでよかったし、高校二年にもなって家族からの誕生日プレゼントなんて期待してない。お姉ちゃんは毎年ちょっとし たもの(それはホントにちょっとしたものだった。ヘアピンとか、リップとか、お姉ちゃんにもあたしにも負担にならないもの)をくれていたけど、お姉ちゃん の彼氏に貰おうなんて思ったこともなかったから面食らった。
「いいの?あたしゼータクだよ」
と、冗談めかして言うと、ユーダイさんは「いいよ、美紀ちゃんにも迷惑かけちゃったしね」とひょろひょろの体で笑顔を見せた。
ということはユーダイさん、お母さんやお父さんにも何かプレゼント買ってるってことかな?ユーダイさんのどこにそんなお金があるんだろう?
あたしは自分でも思うけど馬鹿みたいに正直だ。不満すらオブラートに包むどころか飲み込んでしまうお姉ちゃんとは違う。あたしはお姉ちゃんを尊敬だけし て生きてきたわけじゃなくって、そりゃ姉妹だもの、ねたみだってある。お姉ちゃんはこんなに美人なのに、どうしてあたしは美人じゃないのよ、と何度鏡の前 で泣いただろう。好きな男の子に「お前みたいなブス嫌いだよ」って言われた中一の春を、あたし忘れてない。頭だって良くないし、正直とりえらしいとりえも ない。そんなあたしに唯一出来た自己主張は馬鹿正直に自分をさらけ出すこと。そうでもしなくちゃ周りに認めてもらえない。
だから、わからないことは何でも聞いていく(ただし、好きでもなく興味もない勉強のことだけは不思議と質問できないんだよね)
「ユーダイさん、お金どこにあるの?」
それからあたしはもう一つ、ちょっと気にかかってることを言う。
「ユーダイさん、結婚するのだってお金かかるのよ?」
そうすると、ユーダイさんのかいわれ体が揺れて、あたしの頭を撫でた。かいわれ大根に手があったら、こんなさわり心地なのかもしれない、そう思うくらいに軽かった。
きちんとご飯食べてんのかしら?この人。
かいわれは一言、こう言った。

「僕はもう大人だから」

少しひっかかったから、ユーダイさんの帰ったあと、あたしは気づいたら丘崎に電話してた。他のどんな女の子の友達よりも、丘崎は気が合う。丘崎もそうだといいけれど。
「それはさ、大人だから結婚式の資金も頑張って出しますよっていうことじゃないかな?」
しばらく考えた後、丘崎は言った。あたしはそれでもひっかかった。
「何それ何それ。お金があれば大人ってことなの?」
「そういうわけじゃないと、思うけど」
何となくあたしは憤慨していた。ユーダイさんの真意を汲み取れないことが一番嫌だった。汲み取れないってことは、あたしが子どもだってことなのかもしれない、とも思っていた。子どもだけど、子どもだけど
「ユーダイさんだって学生じゃん」
「怒らないでよ、美紀。僕は思うんだけど、それって、ユーダイさんのアピールなんじゃないのかな。僕、思うんだけど、ユーダイさんとお姉さんの関係って、たしかに最近じゃ珍しくもないかもしれないけど、親にとっては嬉しいものじゃないでしょ?親って、美紀の親に」
「あたしの親に、自分を売り込んでるってこと?」
「言い方は悪いけど、そういうことじゃないのかな」
丘崎の考え方を聞いてるうちにあたしは、ユーダイさんが哀れに思えてきた。ユーダイさんとお姉ちゃんのしたことって、きっと一時のアヤマチだったんだ。 避妊を忘れてたのか、失敗したのか。怖くてお姉ちゃんにもユーダイさんにも、あたしは聞けないけれど、一時のアヤマチだったのだろう。もしも、もしもわざ としなかったのだったらユーダイさんはヒドイ。お姉ちゃんのことなんて、やらしい言い方すれば「欲望のオモチャ」にしか考えていなかったってことになる。
まぁ、あのかいわれにそんなことが出来るわけがないと思うけど。
「丘崎は避妊、ちゃんとする?」
あたしの関心はいつしかそこに移った。電話の向こうで丘崎の顔は真っ赤なのだろう、と想像した。
「僕はしないよ」
返された意外な答えに、あたしは一瞬言葉をなくした。
「違う、そうじゃなくって…」
丘崎は焦った声になる。「そうじゃなくって、僕がしないのは…」
「ああ…そういうこと」
みなまで言わずとも、彼の言いたいことがわかった。丘崎は多分性行為自体をしないって言ってる。それは現在のことだけではなく、未来もそうなのだ、と口調からあたしは悟った。
丘崎らしい、とあたしは何故だか諒解した。そして安心した。あたしは心のどこかでいわゆる性行為に興味を持ちながら、恐怖心が殆どだった。「ついにこの夏、捨てちゃいました」と話す友人たちを尻目に、あたしはまだまだ子供なんだわ、と感じていた。
「子どもでいいよね。あたしたち」
ユーダイさんはお姉ちゃんと関係を持ったから「大人だ」って言ったのかな。それも違う気がする。
「うん。心が大人になれれば僕はいい。人と人とは、もっと精神的なものでつながれたいよ」
だけど丘崎の求める「つながり」は、多分叶わない。聡い彼が、そのことに気づかないわけはないんだけど。

朝、お姉ちゃんの調子が悪かった。
あたしとお姉ちゃんを迎えに来たユーダイさんは、あたしに「すまない、また今度必ず」と言い、そのままお姉ちゃんの世話をしたいと申し出た。お父さんは 「きみにまかせた娘だから」と言って、「僕は釣りに行く」と言って、釣堀に避難した。お母さんは、意気込んだ顔つきで「よろしくおねがいします」とユーダ イさんに挨拶した。この人はこの人なりに、ショックを乗り越えてユーダイさんを受け入れようとしているみたいだった。
あたしは、といえば、ユーダイさんに「ちぇ、仕方ないなぁ。ユーダイさん、あたしプレゼントはコムサのスカートでいいよ」と、ゼータクをぬかして、出かけるつもりだったままのちょっとカッコつけた服装で家を出た。
「美紀、どこ行くの?」
お姉ちゃんの声が後ろから聞こえた。あたしは何も言わずに出て行った。調子悪いお姉ちゃんを心配させるようなことしてしまった。

だけどあたしは何だか嫌だったのだ。
お姉ちゃんと、お姉ちゃんの恋人が、つまり性的な関係を結びましたってことが明らかな二人がよ?二人で一緒にいる。
なんだか、吐き気がした。
丘崎に電話をする。留守電。メッセージを入れずに切る。友江。今から暇?塾?そう。アキ…は、アキはやめておこう。8つ年上だという彼の家に泊まってるはずだ。
誰でもいいから一緒にいたかった。どうして丘崎は留守電なんだろう。塾だっけ?そうだよね、みんなそろそろ受験だって考えてる頃だ。あたしだって乙女17だ…
そういえば丘崎はどこを受験するんだろう。丘崎だったら国立だろうか。あたしは、丘崎みたいなことは出来ないし…できれば芸大に行って絵を描きたいけど、それすら中途半端な才能で。
あたし一人、取り残されていく心地だ。

「美紀じゃん」
何気なく入ったマックで声をかけられ、見上げると、健一だった。がっしりとした体格にスポーツ刈りが似合っている。健一はそのままあたしの隣の座る。
「ひとり?」
「ひとり」
「彼氏待ち?」
「いないし」
小気味良いテンポで会話が進む。健一が人気者たる所以だろう。誰に対してもソツなく。そう、それはソツなく。
「丘崎は?」
「え?」
「いつも一緒じゃん」
この人、気づいてないのかな。丘崎が自分にほれてるって。
「いつもじゃないよ。今日は違うし」
「今日はおめかしさんじゃん」
「そう?」
「そう」
「制服しか知らないからじゃん?」
「いや、気合を感じるね」
ドキッとする。そりゃ、あたしは少しくらい楽しみにしていた。誕生日プレゼントを買ってもらえるってことを。
「今日はね、おねーちゃんのダーリンに誕生日プレゼント買ってもらうはずだったの」
「誕生日なの?おめでと。花の17歳か」
健一の声も、表情も明るくなる。大きな瞳がますます大きくなって。「今日じゃなくて、一昨日」というあたしの言葉を聞くか聞かないかのうちに、彼は「ちょい待ってて」と席を離れた。健一だって17歳じゃん、とあたしは呟いた。
驚いた。何で健一がここにいるんだろう、とか考えるけど、別にここは繁華街で今日は日曜だから誰に会ってもおかしくはない状況にあたしはいるわけで。それでも、偶然、丘崎の「意中の人」でしょ。いわば健一は。その人に会うなんて驚きだ。
しばらくして、健一がカップアイスを手にしてやってくる。
「はっぴばーすでー、みきちゃーん」
あんまり上手ではない歌を歌いながら、あたしにスプーンとアイスを贈呈。「やだなぁ、はずかしいよ」
「照れるなって。俺からの誕生日プレゼントだぜ?素直に受け取れぇ」
健一はよく話す。
あたしはアイスを食べながら、健一の今日の動向を知る。
今日は大学の赤本を買おうと張り切って来たものの、秋物セールをやっていてついつい足がそっちに向いてしまい赤本を買う気がなくなってしまったこと。その後ゲームセンターで現実逃避をしちゃったこと。
そんな普通のことを、健一は巧みに面白おかしく話す。
丘崎と話しているときとは違った楽しさが、ある。丘崎とは、ふざけた話をあんまりしない。丘崎とは、真剣な話ばかりする。丘崎は、深い、深い、親友に近い。
でも健一は「男の子」だ。
話してるとこっちも楽しい気分になってくる。丘崎は健一のこんなところが好きなのかもしれない。
そして、健一はさらっと言った。
「つーか、俺、美紀と付き合いたいな、とか」

8時も近くなって、家に帰るとユーダイさんは帰った後だった。
「遅かったじゃない。もうすぐご飯だよ」
お母さんが、台所で油の音をパチパチいわせながら言った。あたしはそれには何も答えず、二階の自分の部屋に行き、ポシェットをベッドの上に放り投げ、そ れから、中指にはめた指輪を外してメイク道具入れに隠した。鏡を見ると少し火照ってるみたいだった。顔を洗って、クレンジングでメイクを落として、それで も顔が赤いようだったから、もう一度メイクをした。ファンデーションで少し、赤みが隠れた気がした。
何となく気になって、お姉ちゃんの部屋を覗いた。
お姉ちゃんの部屋はラベンダーの匂いがした。アロマキャンドルだった。あたしがあれを炊いたら絶対我が家は火事になるだろう。お姉ちゃんだから出来るし、お姉ちゃんだから「似合う」。
お姉ちゃんは布団の中で「ALICE’S ADVENTURES UNDER GROUND」と書かれた本を読んでいた。つまり「不思議の国のアリス」のオリジナル(原語版)だ。豪華な装丁だったが、そんなに高いものではない、とお姉ちゃんから聞いていた。
「お帰り」
鈴のようなお姉ちゃんの声で、あたしはまたドキッとした。ユーダイさんは、毎日ドキッとしてるのだろうか、と胸の隅で考えた。
「元気?」
「だいぶ良くなった。たいしたことじゃなかったんだけどね、全然」
本を閉じて、起き上がる。最近、またおなかが大きくなったみたい。そのたびにお姉ちゃんの表情も柔和になっていくみたい。
お姉ちゃんは、お母さんになるんだ──
「妊婦さんはからだがデリケートだから大事にしなくちゃいけないって、家庭科の保田も言ってたよ」
あたしは保田先生が嫌いだ。女って感じがして嫌いだ。一言で言えばヒステリックだ。
「そうなんだけどね。嫌だな。ちょっと体調悪かっただけなのに、みんな大げさ」
「だけど、大事にしなくちゃいけないの。お姉ちゃんが無理して、みきちゃんかよしきくんかしらないけど、その子まで体悪くなっちゃうでしょ」
美紀ったら決め付けてる。と、お姉ちゃんはくすくす笑った。鈴が笑った。
と、隣の部屋、つまりあたしの部屋で携帯が鳴った。あたしは慌てた。丘崎かな──
慌てて部屋を出て、電話を見る。
着信:健一
通話ボタンを押すと、そのままあたしはベランダに急ぎ足になった。お姉ちゃんがちらりとこっちを見た。お姉ちゃんには、わかっちゃうのかな?
健一からの電話はたわいない内容だった。明日の宿題終ったか、とか、高木先生から電話があってヤバイとか。だけど明日も遅刻しそうだな、とか。
たわいない内容だった。「あの指輪はめてる?」とか。

よく、少女漫画やドラマなんかで。
あるじゃない?親友の恋人とっちゃったとか、親友の好きな人と付き合っちゃった、とか。
それで泥沼劇が広がる。
でもさ、丘崎は男なわけで。あたしはその点、女なわけで───
あの公式には、あてはまらないと思うんだけど。

大体、あたしは、丘崎が健一のことを好きだって、はっきり知らない…

お昼ご飯はいつも二人で。図書館前の中庭で。
健一の「美紀」という呼びかけを無視するようにして、あたしは中庭に急いだ。
いつもと同じように丘崎と、話したかった。
中庭でお弁当を開けて待ってると、丘崎がやってきた。
日光が当たって、丘崎はやっぱり可愛い。
それから、一言、長いまつげを落として「健一が、探してたよ」とだけ言った。
「美紀のこと、探してたよ」
あたしは何も言えなかった。
「僕、今日お弁当忘れた」
「売店でパン買いなよ」
「売り切れてた」
「あたしの、分けてあげるよ」
「健一が、探してたよ。美紀と、食べたいんだと思う」
そう、とあたしは、多分聞こえないくらいの小さな声で言った。あたしは多分青ざめていた。
「キスした?」
丘崎は、何気なく聞いた。
あたしは息が詰まった。
「してない、したんじゃなくって…」
されたのよ、とあたしは言いたかった。目頭が熱くなっていた。
「受け入れたんだ」
僕は多分しないだろう──そう言っているようだった。
プラトニックじゃなくて。
あたしにも、あの時なんで健一からのキスを受け入れたのかがまるでわからず、いつのまにかあたしたちは付き合うことになっていて、多分あたしは、お姉 ちゃんとユーダイさんのことでゴチャゴチャしていたから──もう別れる、付き合ってるのかさえ曖昧だけど別れる。あたしはまだまだ恋愛なんて出来ないん だ、あたしは丘崎と友達でいられればそれでよくって───喉の辺りでそんなことを考えた。
丘崎は言った。
「おめでとう」
何におめでとうなのか、あたしにはさっぱりわかんなかった。あたしと健一が付き合うってことに対して?何に対して?それともあたしのファーストキス?何に対して?
もう、ボロボロボロボロ涙が出てきてしまった。涙はお母さん自慢の粉ふき芋にかかって、それでもあたしはボロボロボロボロ泣いていた。
「ごめんね」
丘崎は微笑んでいた。
お姉ちゃんみたいに微笑んでいた。
「ごめんね」
丘崎は微笑んでいた。
だけどちょっと目が赤かった。
「ごめんね」
もう一度言おうとした「ごめんね」を、丘崎はあたしを抱き寄せることでふさいだ。丘崎の胸は、温かかった。
「僕は大丈夫──僕は、男だから───だから、これからも友達だから───」
声が震えていた。
あたしは、申し訳なさでいっぱいになり、それから、また泣いた。
周りの人が、不思議そうにあたしたちを見ていたが、あたしは構わず泣いた。

教室に戻ると、少し不満気な顔の健一が、泣き腫れたあたしを見て、やさしそうな顔になった。
健一はあたしの頭をちょっと撫でると、教室の外にあたしを連れて行き、そこで自分のお弁当を広げた。タコさんウィンナーが入っていた。教室の皆はあたし と健一を冷やかして、宮田が「丘崎くん、失恋?」と言った。それは丘崎が健一に振られた事を指摘しているのか、それとも、あたしと丘崎が恋人同士だと思っ ていたのか。
健一はウィンナーを一つあたしの口に入れて、それからキスした。
あたしはそのとき、とても健一が好きになった。
少し、お姉ちゃんとユーダイさんのことを思った。お姉ちゃんはユーダイさんとキスしたとき、どんな気分だったんだろう。
あたしは「多分」、と想像した。
多分、お姉ちゃんの体はユーダイさんで満たされたことだろう。

次の日曜日の朝、健一との約束に行くためにいつもより張り切って「おめかしさん」になっていると、ユーダイさんが現れた。
ユーダイさんの右手にはコムサの袋があった。あたしはそれを受け取った。
「高かったでしょ?」
「死ぬかと思ったよ」
中を覗いてあたしはまたまた驚いた。普通のスカートと、ちょっとしたドレスがあった。
ユーダイさん、こんなにあたしの気をひいてどうするつもり?
「ユーダイさん、死んだでしょ?」
「うん、死んだね」
「どこにこんなお金があるのよ、大学院生って儲かるの?」
ユーダイさんは笑った。
「勉強は、またいつでも出来るからね」

あたしは、家を出る前にドレスを着てみた。「結婚式はこれで出て欲しいんだ」と、かいわれからごぼうくらいには昇進したユーダイさんが、鼻の下をかいて笑った。
そういうことをするから鼻の穴が大きくなるのよ?
黒のドレスは、とっても綺麗だった。
あたしの髪の毛をお姉ちゃんは結ってくれて、「美紀、似合うじゃない」とおでこをコツン、と突付いた。それから、ユーダイさんのすぐ近くで「ありがとう。無理したでしょ」と囁いた。囁きは鈴の音。

あたしはちょっと考えた。
結婚式には、健一を呼ぼうか。丘崎を呼ぼうか。
だけど丘崎に聞けば「僕は都合が悪い」とでも言うに決まっていた。
だからあたしは多分どちらも呼ばない。
健一は「いきたかった」と言うだろう。だけど呼ばない。

あたしにとって、丘崎は相変らず大事な奴だった。進路の話をするときは先ず丘崎に話した。教室でも、始めの頃は少し健一に遠慮したけど、あるとき健一に 「どうしてあたしが好きなの」と聞くと、照れてそっぽ向きながら「美紀は丘崎と、仲良かったから」と言った。ホモの噂がある丘崎と普通に付き合えていたか ら「いい奴だなぁと思って尊敬した」と言った。あたしはその時から、丘崎と普通に話すことを再開した。
付き合えば付き合うほど、健一はいい奴で、最近めっきり健一にのめりこんでるあたしに気がつく。たまに、「だから丘崎は健一が好きだったんだ」と感じて胸が痛くなり、だけどそれはあたしの胸にしまっておくことだと思って、馬鹿正直は発揮しない。

結婚式の準備が順調に進んでいる。
お姉ちゃんのウェディングドレスは、胸元に花が飾ってあってとても綺麗。そして勿論、おなかが目立たない作りになっている。ごぼうのユーダイさんは、 「どうせレンタルなら、高くていいやつ着たほうが」と言って、お姉ちゃんを見てにんまりしていた。いやらしい。と思いながらあたしは、ユーダイさんから 貰ったドレスを着る日を楽しみにしている。

携帯電話の着信を最近、「てんとう虫のサンバ」にした。鳴ると「もうすぐだね」と一言お姉ちゃんに言ってから電話に出ることにしている。お姉ちゃんは「また…」と言って笑う。
かけてくるのは大抵健一かアキで、丘崎からかかってくることは少ない。健一はたわいもないことを言い、アキは8つ年上の彼の愚痴をこぼす。そして近頃で は「で、どうなの?捨てた?」と聞いてくる。早くあたしと「対等」な会話がしたくてたまらないらしい。だけど健一はまだまだ、そんなことは考えてないみた いだった。あたしもそれでいいと思っている。ホッとしている。そしてそのたびに「やっぱり、丘崎は見る目がある」って、尊敬しなおす。

遅刻が多くて高木に叱られてる健一を待ちながら、あたしは丘崎と並んで立っていた。
「もうすぐだね。お姉さんの結婚式」
「うん。我が家はてんやわんやだよ」
「おめでとう」
「あたしに言われたって」
「美紀は最近綺麗だ」
「何よ、突然」
丘崎は少し笑った。
「恋愛の力はすごいね」
あたしは、うまい言葉を返せなくて、肘で丘崎のわき腹を突付いた。傍から見たらあたしたちは恋人同士に見えるのかもしれない。
「ユーダイさんの言ってた『大人』って意味だけど─」
丘崎は目を伏せて呟いた。
「僕はまだわからないけど──きみはどう?」
あたしも、目を伏せた。上履きが汚い。洗わなくちゃ。
「わかんない」
丘崎は足を組みなおした。
「そうか…恋人が出来ればわかるっていうようなものでもないんだね」
「当たり前じゃん」
あたしは笑った。扉が開いて、指導部の矢作先生が出てきて、慌てて口を閉じた。
矢作先生はあたしたちをじろりと見て「早く帰りなさいよ」と言うと、丘崎をまた見て廊下の角を横切っていった。
「僕…最近思うんだけど」
少し声を潜めた。
「僕…ひょっとしていつか、キスくらいはするのかもしれない」
あたしは驚いた。
「そうしたら心が大人になるかな」
目を上げて、隣の丘崎を見る。やっぱり綺麗で、ほっぺが赤いのは可愛い。
「短絡的だぞ。らしくない」
「そうかな。これでも僕は考え詰めたんだけど」
「あたしとしては、丘崎が探求してる、『真に精神だけで成立する愛情』を実現して欲しい」
そう言うと、丘崎はふっと笑った。
あたしも笑った。
どうするのかな。丘崎は。
だけどそれは、どうでもいい問題のような気もしていた。

釈放された健一があたしたちの頭を一回ずつ『漢字の学習』で叩いて行った。「課題、『漢字の学習』10ページ。俺は小学生かよ」
後ろから現れた高木先生が、「小学生はこんなに遅刻しないっ」と、黒板消しで健一の頭をはたいた。
白い粉がパフッ、と舞って、健一が咳き込んで、あたしたちは今度こそ、大きな声をあげて笑った。