愛しの愚者マリイハンナ

彼女を私が知ったのは学園に入学して間もなくのことだった。神学の講義に於いて聖人の奇跡を幾つか教えられた。だがしかし我々は奇跡を求めることなく信仰を礎として日々の生活をたゆみなく浄く正しく微笑をもて過ごすべきであると。休憩時間、微笑の練習をしていたら、隣の教室から聞こえてくる、けたたましい叫び声、女たちの。下衆な男が誰かを冒涜している言葉。女たちの非難がましい悲鳴がやがて嘲笑に変わり、一日の終り、私は彼らの真ん中でひきつった笑いをうかべる涙顔の女を知る。
マリィハンナ。
口はだらしなく半開き、うなじあたりで結われた髪は灰色の、濁った目をぎょろりと動かし周囲を見、下衆な男が何かを言えば肩をすくめて頭を振って頷いて、女が指差し仰け反り笑い転げれば、その指を見て黄ばんだ歯を見せ口元を歪め、迎合した笑いのつもりですか、それは、醜い。
私はブーツを脱ぐと投げてやった、外れもしないで茶色い真新しい入学祝いに買ってもらったばかりの革のブーツはマリィハンナの顔に当たった。仰け反り笑う女が止まって私を見たが、すぐに指差し笑い続けた。男はこちらに目だけを寄越すと彼らのブーツを脱いだ。宙をブーツが角度のある放物線を描いて落ちる、マリィハンナの頭上に。愚かなマリィハンナは眉根をひそめたその後で、黄ばんだ歯を見せ赤く艶々した舌を見せ笑う。

マリィハンナは愚かである。私や多くの同級生を侮辱することは大半の人間にとって罪悪であり教義に反する。だがマリィハンナを侮辱することは許しの中にあるように思われた。マリィハンナは人に侮蔑され穢され貶められるために生まれたかのようだった。戒律に基づく厳しい学園生活の中で鬱憤を蓄積する我々に、聖人が寄越した奇跡の存在に思われた。マリィハンナは何をしても愚かしい笑いを浮かべていた。殴られて泣いても汚い顔を見せていつも笑っていた。神に奉仕し教鞭を振るう大人たちはそれを見て見ぬふりどころか、講義の中でマリィハンナを責め立てることに躍起していた。頭の悪い生徒が答えられない質問の後マリィハンナは当てられて、愚かな女が正解を導くはずもなく教師は彼女を教壇へ呼び、鞭で打った。彼女の背中に鞭が当てられない日はなかった。そのような折にもマリィハンナは口元をだらしなく歪め、目尻を垂れているのだった。阿呆であった。

聖人の奇跡に関する講義は年間を通じて行われた、毎度締めくくりは奇跡は淀まぬ信仰の積み重ねに他ならない、浄く正しく微笑もて生きよとお定めで飽き飽きしていたが、100を遥かに越え、学園に規定の年数いたとしても覚え切ることの出来ない聖人の奇跡は私にひとつの可能性を示し始めた。
私も聖人となることである。
多くの生徒と同じく私は奇跡に憧れていた。神や聖人が引き起こす奇跡は胸を震わせ瞳に輝きを与えた。肉欲の罪を犯した男が臨終の間際に獣に己を食わせ死後、彼の世界に引き寄せられて聖人に認められた逸話などは特に鳥肌が立つ。最後に食われるところが何より良かった。教本において<大熊はぺちゃぺちゃ音を立てて彼を食べた>と擬音まで使って表記されている、それが良い、魅惑する。私も己を誰かに食わせることを考えた。ぺちゃぺちゃと下品な音を立てて食われた私は透明な羽を持つ空の子らに手を引かれ、彼の世界に発つ。彼の世界で神と歴代の聖人に跪き、死後の認定を受けた後聖人の階級を貰う、私が教本に載る、銅像が立つ。
この痺れる空想のクライマックス、私を食らうのは大熊だったり大蛇であったりした。時には教壇の大人、神官、田舎の両親、クラスメイト、だが一番身震いするのはマリィハンナに食われる空想だった。
マリィハンナのあの、汚らしい骨張った腕が私を押さえつけ、灰色の髪を垂らした貧相な頬を血塗れにして赤く艶々した舌を押し当てた後に黄ばんだ歯ががぶりと私の喉を割く。私は叫ぶことなく穏やかに食われる。場所は聖堂がよろしい。聖堂の神像前、私を食らうマリィハンナの舌音だけが響いている…ぺちゃぺちゃぺちゃ…

私は毎夕マリィハンナを度々聖堂に招くといつも教本を手にして礼拝し、向き合って聖人の奇跡を語り合おうとした、けれどマリィハンナの愚かしい顔を見ると奇跡のことは頭から飛び、彼女の頬を教本で打ち、ブーツで腹を蹴り、知る限りの侮蔑の言葉を叩きつけ、淫らな行為を強要することしか出来ない。鼻や口から血を出しながらひきつった笑みを浮かべるマリィハンナが何も言わなくなるまで続け、夜更け聖堂に月明かりが差し込むと清々しく浄い心持ちとなって私は愚かな女に手を差し伸べる。マリィハンナはごつごつした指で私の手を取り、接吻し、祝福をする、その頭を今一度床に押さえつけ唾をはき踏みつけると聖堂を一人で出てゆく、までが日課であった。

ある時マリィハンナは堕落し、その噂はたちどころ学園中に広まった。マリィハンナは煙草と酒を覚え卑猥な態度を身につけ、神官たちが会議にかけるところとなった。あらゆる堕落を身につけそれを隠さぬ愚かなマリィハンナは間もなく学園を追い出される運びとなった。多くの者がそれを拍手喝采で受け入れながら、誰もが胸に一つの期待を抱いてやまなかった。
マリィハンナが、最後に必ず皆が見たいと望んでいる姿を見せてくれるだろうということを。
彼女を堕落させたのは私であった。直接的では無論ない。私は私の持つ様々な接点を辿り、見知らぬ相手にマリィハンナの堕落を依頼し愚かなマリィハンナはその通り堕落し、堕落してなお愚かな笑みを止めないマリィハンナに私の興奮は極限に達していた。今煙草と酒によって悪臭を持つマリィハンナの歯がはらわたを引きずり出すところを空想し全身を痙攣させた。

マリィハンナが学園を去る日、私が教本のあの場面を諳んじてみせるとマリィハンナはひきつった笑みを浮かべた。私は学園中が彼女に注目する中歩き出し、マリィハンナの前で衣服を脱ぎ全身を晒し、申し出るーー愚かで堕落したあなたを浄めるために私を食らえばいいと。
学園の注目が私に集合する。
マリィハンナはうすら笑いで口元を歪めると、私の喉元に接吻。赤い艶々した舌が音を立てる、ぺちゃぺちゃぺちゃ…。瞬間、私はマリィハンナを殴りつけ地べたに押し倒し、歪んだ頬にこの白くやわらかなかかとを落とした、それが皮切りで、学園中の女が男がマリィハンナに集まると、皆が皆かかとを落としていった。マリィハンナは醜く彼の世界へと発った。

かくして愚かなマリィハンナを失った我々には、浄く正しい微笑の日々が残された。平穏な微笑を浮かべ挨拶を交わし、頭の悪い生徒は正当に罰せられ、たゆまぬ努力を続けることとなる。私は聖人たらんとした姿勢を評価され神官の道を歩むこととなった。マリィハンナは聖人にはならなかったが、聖堂の裏に小さな銅像を立てられた。その銅像に、人は穢らわしいものをひっかけて喜ぶのだった。神官となった私は聖堂と聖像を管理する仕事であり、その中にマリィハンナの像も含まれた。夕の祈りの後、私は悪臭の漂うマリィハンナの像に酒をかけ浄めるのであった。
私の最後はこのマリィハンナの像で殴打されることによりたいと祈る。